菊澤研宗著『命令の不条理〜逆らう部下が組織を伸ばす〜』を読了。
これは、2007年7月に光文社新書から『「命令違反」が組織を伸ばす』という書名で発刊されたが、今回、書名変更の上、中公文庫から新刊となった。
菊澤氏の著作は、過去に何冊も読んでいた。
彼の主張の特徴は、「組織の失敗は合理的な判断によってもたらされる」という点にある。
これは、私たちの常識と違う。
普通は、過去の失敗事例を見たときに、「リーダーが非合理的な判断をしたために失敗した」と解釈する。
そして、リーダーのここがダメだった、ここが間違いだった、と論評する。
ところが、菊澤氏は、「リーダーは合理的な判断をして失敗する」と解釈する。
結果から過去を振り返ると、どうしてこんな非合理的な判断をしたんだろうと思ってしまうことも、との当時の当事者の立場に立ってみると、これが最善の策だと解釈して実行していたことがわかる。
つまり、その時のリーダーが間抜けだったから失敗したのではなく、有能なリーダーであったのにもかかわらず失敗してしまったことが重要なのだ。
私たちは、結果論から過去を断罪しがちだ。
結果が分かってからなら何とでもいえる。
しかし、ここからは、「リーダーは完全合理的であるべし」という教訓しか得られない。
現実には、神のように完全合理的な判断ができる人間などこの世に存在しない。
結果論による論評は、ありもしない理想像を求めてしまっていることになる。
ここで、菊澤氏の「リーダーは合理的な判断をして失敗する」という主張には、考えさせられることが多い。
さて、問題はここからだ。
人は合理的な判断をして失敗してしまうとしたら、私たちは失敗しないためにはどうしたらいいのか。
どんなに優秀な人でも失敗は避けられないのなら、あきらめるしかないのか。
失敗を回避する方法が示されていない。
菊澤理論への批判はここにあった。
それに対する答えが本書『命令の不条理』だ。
本書のテーマは、「部下の命令違反が組織を守る」という主張だ。
またも逆説的な主張で、どういうことかと内容を読んでみたくなる。
例によって、太平洋戦争の代表的な戦闘場面を取り上げ、検証を試みている。
どうやら、命令違反にもいろんなタイプがあって、「よい命令違反」と「悪い命令違反」があるらしい。
トップが間違った命令を出したとしても、部下がやむを得ず命令違反をすることで、組織を守ることができる。
これが、よい命令違反。
ペリリュー島での中川州男、ミッドウェー海戦での山口多聞のケースがこれにあたる。
一方、トップが適切な命令を出しているのにもかかわらず、部下が勝手に命令違反をすることで、組織が崩壊する。
これが、悪い命令違反。
ノモンハン事件での辻政信、レイテ海戦での栗田健男のケースがこれにあたる。
それぞれを、理論的な裏付けをもって緻密に分析している。
どういう命令違反が「よい」になり、どういう命令違反が「悪い」になるのかが理論的に示されている。
たしかに、菊澤氏の理論は筋が通っているし、欠陥は見当たらない。
理論的にはその通りだと思う。
だが、残念ながら、すっきりした納得感がない。
自らの理論を過去事例に当てはめて、無理やり解釈しようとしているように見えるからだろうか。
組織は合理的に失敗するということへの解決策が本書で示されているはずだが、これを読んでも、結局、私たちはどうしたらいいのかわからないままだ。
2022年12月18日
2022年12月16日
知られていない臨時情報の仕組み:南海トラフ巨大地震
北海道・十勝沖後発地震注意情報の運用が始まった。
想定震源域で中程度の地震が起きたときに、次の巨大地震の発生を注意するように呼び掛ける仕組みだ。
南海トラフ地震でも同じような仕組みがあって、既に運用が始まっていることは、あまり知られていない。
いや、運用が始まった時にマスコミでしきりに報道されたので、知らない人はいないはずだが、その後、話題にならないので、記憶が蒸発してしまっているのが実情だろう。
かつては「東海地震警戒宣言」が出される仕組みがあった。
東海地震は事前予知が可能であることを前提に、その時には総理大臣が警戒宣言を発出することになっていた。
ところが、地震予知は不可能であることが分かってきたので、この仕組みは撤廃され、代わりに「南海トラフ地震臨時情報」が出される仕組みとなった。
南海トラフ地震発生のリスクが高まったと判断されたときには、「警戒情報」か「注意情報」が発表される。
「警戒情報」は、「リスクがかなり高まっているの警戒せよ」というメッセージ、「注意情報」は、「リスクが高まっているので注意せよ」というメッセージ。
この情報が発表されたときには、各自治体はどのように対応するのかが求められる。
いま、各自治体でその時の対応方法が作られ、住民に伝えられている。
企業も同じように独自の対応が求められる。
警戒情報が出たときにどうするか、注意情報の時にはどうするか。
国や自治体は企業の面倒は見てくれない。
BCPでは、地震発生後の行動を考えるのが通例だったが、これからは、臨時情報の発表があったときからの行動手順を準備する必要がある。
想定震源域で中程度の地震が起きたときに、次の巨大地震の発生を注意するように呼び掛ける仕組みだ。
南海トラフ地震でも同じような仕組みがあって、既に運用が始まっていることは、あまり知られていない。
いや、運用が始まった時にマスコミでしきりに報道されたので、知らない人はいないはずだが、その後、話題にならないので、記憶が蒸発してしまっているのが実情だろう。
かつては「東海地震警戒宣言」が出される仕組みがあった。
東海地震は事前予知が可能であることを前提に、その時には総理大臣が警戒宣言を発出することになっていた。
ところが、地震予知は不可能であることが分かってきたので、この仕組みは撤廃され、代わりに「南海トラフ地震臨時情報」が出される仕組みとなった。
南海トラフ地震発生のリスクが高まったと判断されたときには、「警戒情報」か「注意情報」が発表される。
「警戒情報」は、「リスクがかなり高まっているの警戒せよ」というメッセージ、「注意情報」は、「リスクが高まっているので注意せよ」というメッセージ。
この情報が発表されたときには、各自治体はどのように対応するのかが求められる。
いま、各自治体でその時の対応方法が作られ、住民に伝えられている。
企業も同じように独自の対応が求められる。
警戒情報が出たときにどうするか、注意情報の時にはどうするか。
国や自治体は企業の面倒は見てくれない。
BCPでは、地震発生後の行動を考えるのが通例だったが、これからは、臨時情報の発表があったときからの行動手順を準備する必要がある。
後発地震注意情報の運用開始:北海道・三陸沖
「北海道・三陸沖後発地震注意情報」の運用が本日正午から始まる。
北海道から岩手県にかけての沖合にある「千島海溝」と「日本海溝」でマグニチュード7クラスの地震が起きた場合に、国がその後の巨大地震の発生に注意を呼びかける仕組みだ。
情報が発表された場合、北海道から関東にかけての7道県182の市町村では、1週間程度は日常の生活を維持しつつ、揺れを感じたら直ちに避難できるよう備えておくことなどが求められる。
千島海溝と日本海溝は、巨大地震の発生リスクが高まっている。
日本の巨大地震というと、まず南海トラフと首都直下が取り上げられるが、千島海溝の地震リスクが見過ごされがちだ。
それで、今回の注意情報の運用開始となった。
これはどういう仕組みかというと、千島海溝と日本海溝の震源エリアのどこかでマグニチュード7程度の地震が起きたときに、続いて規模の大きい地震発生の可能性を知らせ、注意喚起するものだ。
これは、過去の経験則から導き出された。
東日本大震災は、2011年3月11日に起きたが、実はその2日前に、同じ場所でマグニチュード7程度の地震が起きていたのだ。
後で振り返ると、これが巨大地震の前震だったのだということが分かるが、この時にはわからない。
津波も起きず、揺れによる直接被害もほとんどなく終わってしまったために、次の巨大地震を警戒する人もなく、注意喚起の情報も発信されなかった。
この時、次の巨大地震の可能性を少しでも意識した行動がとれていたら、被害を少しでも軽減できていたのではないかとの反省がある。
このように、巨大地震の前に中程度の地震が起きるという現象は、過去に何度も記録されている。
それで、想定震源域で中程度の地震が起きたときには、次の巨大地震発生の前震の可能性があることを国民に知らせようということになったわけだ。
かつては、大きな地震が起きたときは、「今後1週間程度は余震の可能性があります」との呼びかけが行われていた。
余震は、本震よりも一回り小さい規模の地震だ。
この呼びかけが、「もうこれより大きい地震は起きない」という奇妙な安心感を与えてしまい、国民に誤った判断をさせることになる。
2016年の熊本地震では、4月14日の地震発生後、余震への警戒が呼びかけられたが、2日後に最大震度7の地震が発生した。
2回目の地震はとても余震と言えるものではなく、同程度の地震が2回連続したものだった。
それで、最近は地震が発生した時は、「今後1週間は、同程度かそれ以上の地震が起きる可能性があります」という言い方に変更されるようになった。
後発地震注意情報は、当たる可能性は低い。
中程度の地震が必ず次の巨大地震の引き金になるとは限らないからだ。
むしろ、次の巨大地震につながらない可能性の方が圧倒的に高い。
確実性の低い情報を流すことで、不必要に国民に不安を与えることになるのではという意見もある。
だが、巨大地震のリスクが高まっているのが分かっていながら、そのことを国民に隠しておくということがあっていいのか、という意見が強い。
それで、リスクが高まっていることをありのままに国民に伝え、それをどう判断しどう行動するかは、国民自身にゆだねようということになったわけだ。
北海道から岩手県にかけての沖合にある「千島海溝」と「日本海溝」でマグニチュード7クラスの地震が起きた場合に、国がその後の巨大地震の発生に注意を呼びかける仕組みだ。
情報が発表された場合、北海道から関東にかけての7道県182の市町村では、1週間程度は日常の生活を維持しつつ、揺れを感じたら直ちに避難できるよう備えておくことなどが求められる。
千島海溝と日本海溝は、巨大地震の発生リスクが高まっている。
日本の巨大地震というと、まず南海トラフと首都直下が取り上げられるが、千島海溝の地震リスクが見過ごされがちだ。
それで、今回の注意情報の運用開始となった。
これはどういう仕組みかというと、千島海溝と日本海溝の震源エリアのどこかでマグニチュード7程度の地震が起きたときに、続いて規模の大きい地震発生の可能性を知らせ、注意喚起するものだ。
これは、過去の経験則から導き出された。
東日本大震災は、2011年3月11日に起きたが、実はその2日前に、同じ場所でマグニチュード7程度の地震が起きていたのだ。
後で振り返ると、これが巨大地震の前震だったのだということが分かるが、この時にはわからない。
津波も起きず、揺れによる直接被害もほとんどなく終わってしまったために、次の巨大地震を警戒する人もなく、注意喚起の情報も発信されなかった。
この時、次の巨大地震の可能性を少しでも意識した行動がとれていたら、被害を少しでも軽減できていたのではないかとの反省がある。
このように、巨大地震の前に中程度の地震が起きるという現象は、過去に何度も記録されている。
それで、想定震源域で中程度の地震が起きたときには、次の巨大地震発生の前震の可能性があることを国民に知らせようということになったわけだ。
かつては、大きな地震が起きたときは、「今後1週間程度は余震の可能性があります」との呼びかけが行われていた。
余震は、本震よりも一回り小さい規模の地震だ。
この呼びかけが、「もうこれより大きい地震は起きない」という奇妙な安心感を与えてしまい、国民に誤った判断をさせることになる。
2016年の熊本地震では、4月14日の地震発生後、余震への警戒が呼びかけられたが、2日後に最大震度7の地震が発生した。
2回目の地震はとても余震と言えるものではなく、同程度の地震が2回連続したものだった。
それで、最近は地震が発生した時は、「今後1週間は、同程度かそれ以上の地震が起きる可能性があります」という言い方に変更されるようになった。
後発地震注意情報は、当たる可能性は低い。
中程度の地震が必ず次の巨大地震の引き金になるとは限らないからだ。
むしろ、次の巨大地震につながらない可能性の方が圧倒的に高い。
確実性の低い情報を流すことで、不必要に国民に不安を与えることになるのではという意見もある。
だが、巨大地震のリスクが高まっているのが分かっていながら、そのことを国民に隠しておくということがあっていいのか、という意見が強い。
それで、リスクが高まっていることをありのままに国民に伝え、それをどう判断しどう行動するかは、国民自身にゆだねようということになったわけだ。
2022年11月21日
凡庸なリーダーは事態を悪化させる
寺田総務大臣の更迭。
総理の決断の遅さが批判されている。
山際氏の場合も、寺田氏の場合も、任命直後から問題が指摘されていた。
マスコミや野党がそこに食らいついて話さないのは目に見えていながら、対応を先延ばししたために、事態を悪化させ続けた。
いま、新型コロナの第8波が始まろうとしている。
いつまで、こんなことを繰り返しているのだろうか。
以前から、第2類相当の扱いを、第5類相当に切り替えよ、という声が国民の間から立ち上がっていた。
第7波の時、総理は「感染拡大の最中に基準を切り替えると現場が混乱する」と言って、決断を先送りにした。
いま、第7波が収まり、第8波を迎えようとしている。
基準切り替えをするとしたら、ラストチャンスだが、決断は先送りにしたままだ。
閣僚人事にてんてこ舞いで、国政の重大事案にじっくり向き合う余裕を失っているようだ。
第8波では第7波以上の感染状況を迎える。
第2類相当のままでは、再び医療現場の逼迫が起きるのは目に見えている。
その時、また、国民に外出自粛、3密回避を呼び掛けるのか。
本来は、国民の健康を守るために医療体制があるはずなのに、いまでは医療体制を守るために国民が犠牲を強いられるという倒錯した状況が続いている。
「聞く力」をアピールしていた総理。
本当に聞く力しか持っていなかったことが分かってきて、失望感が強い。
危機管理においては、「誤断は不断に勝る」が教訓だ。
ぐずぐずしていて決断できないようなら、間違っても何らかの決断をした方がいい。
早いうちの決断なら、間違っていたとしても取り戻す時間の余裕がある。
ところが、決断できない者は、ひたすら時間ばかりを浪費し事態を悪化させ続ける。
凡庸なリーダーは役に立たないどころではない。
事態を悪化させてしまうという意味で、弊害が大きい。
総理の決断の遅さが批判されている。
山際氏の場合も、寺田氏の場合も、任命直後から問題が指摘されていた。
マスコミや野党がそこに食らいついて話さないのは目に見えていながら、対応を先延ばししたために、事態を悪化させ続けた。
いま、新型コロナの第8波が始まろうとしている。
いつまで、こんなことを繰り返しているのだろうか。
以前から、第2類相当の扱いを、第5類相当に切り替えよ、という声が国民の間から立ち上がっていた。
第7波の時、総理は「感染拡大の最中に基準を切り替えると現場が混乱する」と言って、決断を先送りにした。
いま、第7波が収まり、第8波を迎えようとしている。
基準切り替えをするとしたら、ラストチャンスだが、決断は先送りにしたままだ。
閣僚人事にてんてこ舞いで、国政の重大事案にじっくり向き合う余裕を失っているようだ。
第8波では第7波以上の感染状況を迎える。
第2類相当のままでは、再び医療現場の逼迫が起きるのは目に見えている。
その時、また、国民に外出自粛、3密回避を呼び掛けるのか。
本来は、国民の健康を守るために医療体制があるはずなのに、いまでは医療体制を守るために国民が犠牲を強いられるという倒錯した状況が続いている。
「聞く力」をアピールしていた総理。
本当に聞く力しか持っていなかったことが分かってきて、失望感が強い。
危機管理においては、「誤断は不断に勝る」が教訓だ。
ぐずぐずしていて決断できないようなら、間違っても何らかの決断をした方がいい。
早いうちの決断なら、間違っていたとしても取り戻す時間の余裕がある。
ところが、決断できない者は、ひたすら時間ばかりを浪費し事態を悪化させ続ける。
凡庸なリーダーは役に立たないどころではない。
事態を悪化させてしまうという意味で、弊害が大きい。
2022年11月13日
政治家のスピーチ下手:葉梨大臣の失言
葉梨氏は9日、都内の会合で「だいたい法相は朝、死刑のはんこを押す。昼のニュースのトップになるのはそういう時だけという地味な役職だ」などと述べた。
これが死刑を軽視する重大な失言として取り上げられた。
野党やマスコミの批判が沸き起こる中、本人は釈明に追われたが、自民党内からも、かばいきれないとの声が上がり、11日に更迭となった。
葉梨氏は、頭脳明晰で堅実なイメージがあり、法務大臣就任の報道を知った時、期待できそうだと思った。
だが、こんなつまらない失言で失脚するとは、残念だ。
たぶん、葉梨氏としては、死刑を軽んじるつもりも、法務大臣という職責を軽視するつもりもなかっただろう。
初入閣の法務大臣として周りからもてはやされる中、「いや、それほど大したことではないんですよ」と謙遜のつもりで、「法務大臣なんてこんなもの」と自虐的に冗談を言ったのに違いない。
ここで、逆に「法務大臣は重責なんだ。大変なんだ」なんてことを強調するようなスピーチをしたら、むしろ、場をしらけさせただろう。
葉梨氏は、問題となった会合でたまたま口が滑ったというわけではなく、いろんな場で、同じようなスピーチをしていたようだ。
このジョークでそれなりに場が和むのを見て、同じ調子て繰り返していたのだろう。
更に、「法務大臣はカネがもうからない。票が集まらない」という愚痴までも披露していたらしい。
調子に乗って、自虐ジョークを重ねてしまったようだ。
軽口は、その場に居合わせてスピーチを聴いた人はそれほど違和感がないが、それを、現場の雰囲気を実感しない第三者が文字として読むと強烈な違和感を覚えることがある。
今回は、このケースだ。
葉梨氏は、「死刑を軽視しているような印象を与えてしまったのは本意ではない」として、釈明を繰り返した。
ぶら下がり取材では、その時のスピーチ全文を読み上げ、どのような文脈で語ったものかということを知らせようとした。
片言隻語で上げ足を取ろうとするマスコミへの不満がにじみ出ていた。
だが、4分間の全文朗読を聴いている記者はなく、それを報道するマスコミもなかった。
現場の雰囲気を知らない者が、全文の読み上げを聴いても、それを文字として読んでも、違和感に変わりはない。
むしろ、「発言の一部を切り取られたために誤解されているのでは」と同情していた保守派にまで見限られてしまった。
葉梨氏の抗弁は、事態を悪化させただけだった。
葉梨氏に落ち度があるとすれば、それは、致命的なスピーチ下手にある。
政治家は言葉が商売道具。
その言葉を適切に使えなくては、政治家は務まらない。
言葉で我が意を伝え、言葉で聴き手の心をつかみ、言葉で相手の行動を促す。
話術にはさまざまなテクニックがあるが、笑いを取るというのはその1つ。
だが、この笑いを取るという技術は、思いのほか難しい。
話術の中では高等戦術に入る。
使い方を間違えると、受けなくてドッチラケになるだけでは済まない。
聴き手を不快にさせ、特定の人の怒りを買い、別の問題を引き起こしかねない。
誰も不快にさせず、爽やかな印象だけを残す笑い・・・これを使いこなすには相当のトレーニングがいる。
欧米の政治家のスピーチを聴いていると、笑いをとることが必須のように見える。
中にはライバルを当てこするだけのような低レベルの笑いもあるが、品のあるウィットに富んだ笑いもある。
爽やかな笑いは聴く方も気持ちがいい。
葉梨氏には、聴き手の心をつかむスピーチ能力に限界があった。
それで、安易に程度の低い自虐ネタで笑いを取ろうとしてしまったのだろう。
今回の件で、葉梨氏の政治家としての限界まで露呈してしまった。
再登板は無理だろう。
これが死刑を軽視する重大な失言として取り上げられた。
野党やマスコミの批判が沸き起こる中、本人は釈明に追われたが、自民党内からも、かばいきれないとの声が上がり、11日に更迭となった。
葉梨氏は、頭脳明晰で堅実なイメージがあり、法務大臣就任の報道を知った時、期待できそうだと思った。
だが、こんなつまらない失言で失脚するとは、残念だ。
たぶん、葉梨氏としては、死刑を軽んじるつもりも、法務大臣という職責を軽視するつもりもなかっただろう。
初入閣の法務大臣として周りからもてはやされる中、「いや、それほど大したことではないんですよ」と謙遜のつもりで、「法務大臣なんてこんなもの」と自虐的に冗談を言ったのに違いない。
ここで、逆に「法務大臣は重責なんだ。大変なんだ」なんてことを強調するようなスピーチをしたら、むしろ、場をしらけさせただろう。
葉梨氏は、問題となった会合でたまたま口が滑ったというわけではなく、いろんな場で、同じようなスピーチをしていたようだ。
このジョークでそれなりに場が和むのを見て、同じ調子て繰り返していたのだろう。
更に、「法務大臣はカネがもうからない。票が集まらない」という愚痴までも披露していたらしい。
調子に乗って、自虐ジョークを重ねてしまったようだ。
軽口は、その場に居合わせてスピーチを聴いた人はそれほど違和感がないが、それを、現場の雰囲気を実感しない第三者が文字として読むと強烈な違和感を覚えることがある。
今回は、このケースだ。
葉梨氏は、「死刑を軽視しているような印象を与えてしまったのは本意ではない」として、釈明を繰り返した。
ぶら下がり取材では、その時のスピーチ全文を読み上げ、どのような文脈で語ったものかということを知らせようとした。
片言隻語で上げ足を取ろうとするマスコミへの不満がにじみ出ていた。
だが、4分間の全文朗読を聴いている記者はなく、それを報道するマスコミもなかった。
現場の雰囲気を知らない者が、全文の読み上げを聴いても、それを文字として読んでも、違和感に変わりはない。
むしろ、「発言の一部を切り取られたために誤解されているのでは」と同情していた保守派にまで見限られてしまった。
葉梨氏の抗弁は、事態を悪化させただけだった。
葉梨氏に落ち度があるとすれば、それは、致命的なスピーチ下手にある。
政治家は言葉が商売道具。
その言葉を適切に使えなくては、政治家は務まらない。
言葉で我が意を伝え、言葉で聴き手の心をつかみ、言葉で相手の行動を促す。
話術にはさまざまなテクニックがあるが、笑いを取るというのはその1つ。
だが、この笑いを取るという技術は、思いのほか難しい。
話術の中では高等戦術に入る。
使い方を間違えると、受けなくてドッチラケになるだけでは済まない。
聴き手を不快にさせ、特定の人の怒りを買い、別の問題を引き起こしかねない。
誰も不快にさせず、爽やかな印象だけを残す笑い・・・これを使いこなすには相当のトレーニングがいる。
欧米の政治家のスピーチを聴いていると、笑いをとることが必須のように見える。
中にはライバルを当てこするだけのような低レベルの笑いもあるが、品のあるウィットに富んだ笑いもある。
爽やかな笑いは聴く方も気持ちがいい。
葉梨氏には、聴き手の心をつかむスピーチ能力に限界があった。
それで、安易に程度の低い自虐ネタで笑いを取ろうとしてしまったのだろう。
今回の件で、葉梨氏の政治家としての限界まで露呈してしまった。
再登板は無理だろう。
2022年11月02日
韓国群衆事故:再発防止の前に
10月29日、韓国・ソウルの繁華街、梨泰院で156人が死亡した転倒事故。
事故は長さ40メートル、横幅3.2メートルの狭い坂道で起きた。
非常に狭い空間で一度に大量の犠牲者を出した事故として注目される。
このような事故の検証には3つのステップが必要だ。
第1ステップ:事実の把握(何が起きていたか)
第2ステップ:原因の究明(どうしてそうなったか)
第3ステップ:再発の防止(どのように対策するか)
いきなり、原因を追究したり、責任の所在を論じたりする人がいるが、その前提となる事実の把握ができていないままであるために、百論百出の勝手気ままな議論になりがちだ。
まずは現場で何が起きていたかを確認することが求められる。
群衆雪崩は午後10時半ごろに起きた。
長さ40mの狭い路地の中ほどで始まったらしい。
気を失って倒れる人が出て、空いたスペースに周辺から流れ落ちるように人が押し寄せ、折り重なるように大勢が倒れたようだ。
この路地は、地下鉄出口からグルメ街道へ向かう近道であり、また、グルメ街道から地下鉄に向かう人にとっても近道になっていた。
両方向から人が流れ込み、狭い道路を対面通行している状態だった。
事故発生の数時間前からグルメ街道の方は過密状態が起きており、警察には通報が相次いでいたという。
この時点で混んでいるのはグルメ街道の方で、その過密を逃れようとする人が問題の路地に流れ込んでいる状態。
ところが、その間にも地下鉄からは次々に人が上がってきて問題の路地に向かう。
グルメ街道も過密状態が更に高まり、路地への流入が増加する。
それで狭い路地に両方向からの人流がぶつかり合うことになった。
やがて両方向から押し合い、どちらにも進めない状況となる。
それでも地下鉄からの人流は続き、グルメ街道からの流入も止まらない。
現場にいた人の証言から、このとき、「進め、進め」「押せ、押せ」と煽るような言動をしている人もいたという報道もある。
中には、「もっと押せ、俺らが勝とう」という声もあったという。
たぶん、群衆の中にいる人も両方向からの流れがぶつかり合っているために進めなくなっていることに気づいていたのだろう。
「こちらが引き下がってなるものか」「向こう側に引き下がらせろ」という勝ち負けの感覚に陥っていた人もいたのかもしれない。
路地の中ほどが両方向からの圧力が集中するところで、ここが最も危険だった。
中には立ったまま失神する人も出始めた。
失神者が1人だけなら、周りの人の圧力で立っているが、周辺の人が一度に失神すると、支えられずに塊になって倒れこむことになる。
これが引き金になって群衆雪崩がおきたようだ。
10時半ごろに路地の中ほどで群衆雪崩が発生するが、ヒトが倒れた後も後続がぐいぐい押してきたという証言がある。
群衆雪崩が起きると、一瞬圧力が下がり前方にスペースができる。
そのスペースを埋めるように後ろの人びとが前へ押し寄せてしまうのだ。
後方では前方で何が起きているか分からない。
前方にスペースができて進むことができるようになったので、「ようやく動き出した。それ行け行け」となってしまったのかもしれない。
残されている映像を見ると、警察官や警備員の姿はどこにもなく、全体を見渡してコントロールしている人がいないことが分かる。
群衆の中には「戻れ戻れ」と手を振って後方に合図を送っている人もいたし、沿道の建物のベランダから眺めている人が群衆の人々を誘導しようとしている姿もあったが、これらの指示や誘導が正しかったのかどうかは分からない。
群衆雪崩発生から、警察官やレスキュー隊が到着したのが1時間後。
それでも、周辺は人であふれかえっており、現場に近づけない。
ようやく救助が始まったのが0時前だったという。
心肺蘇生があちこちで行なわれたが、遅すぎた。
心肺停止から数分で蘇生の可能性は急激に下がる。
数時間後では蘇生は不可能だ。
一度に大量の犠牲者を出してしまった背景にはこのような状況があった。
事故は長さ40メートル、横幅3.2メートルの狭い坂道で起きた。
非常に狭い空間で一度に大量の犠牲者を出した事故として注目される。
このような事故の検証には3つのステップが必要だ。
第1ステップ:事実の把握(何が起きていたか)
第2ステップ:原因の究明(どうしてそうなったか)
第3ステップ:再発の防止(どのように対策するか)
いきなり、原因を追究したり、責任の所在を論じたりする人がいるが、その前提となる事実の把握ができていないままであるために、百論百出の勝手気ままな議論になりがちだ。
まずは現場で何が起きていたかを確認することが求められる。
群衆雪崩は午後10時半ごろに起きた。
長さ40mの狭い路地の中ほどで始まったらしい。
気を失って倒れる人が出て、空いたスペースに周辺から流れ落ちるように人が押し寄せ、折り重なるように大勢が倒れたようだ。
この路地は、地下鉄出口からグルメ街道へ向かう近道であり、また、グルメ街道から地下鉄に向かう人にとっても近道になっていた。
両方向から人が流れ込み、狭い道路を対面通行している状態だった。
事故発生の数時間前からグルメ街道の方は過密状態が起きており、警察には通報が相次いでいたという。
この時点で混んでいるのはグルメ街道の方で、その過密を逃れようとする人が問題の路地に流れ込んでいる状態。
ところが、その間にも地下鉄からは次々に人が上がってきて問題の路地に向かう。
グルメ街道も過密状態が更に高まり、路地への流入が増加する。
それで狭い路地に両方向からの人流がぶつかり合うことになった。
やがて両方向から押し合い、どちらにも進めない状況となる。
それでも地下鉄からの人流は続き、グルメ街道からの流入も止まらない。
現場にいた人の証言から、このとき、「進め、進め」「押せ、押せ」と煽るような言動をしている人もいたという報道もある。
中には、「もっと押せ、俺らが勝とう」という声もあったという。
たぶん、群衆の中にいる人も両方向からの流れがぶつかり合っているために進めなくなっていることに気づいていたのだろう。
「こちらが引き下がってなるものか」「向こう側に引き下がらせろ」という勝ち負けの感覚に陥っていた人もいたのかもしれない。
路地の中ほどが両方向からの圧力が集中するところで、ここが最も危険だった。
中には立ったまま失神する人も出始めた。
失神者が1人だけなら、周りの人の圧力で立っているが、周辺の人が一度に失神すると、支えられずに塊になって倒れこむことになる。
これが引き金になって群衆雪崩がおきたようだ。
10時半ごろに路地の中ほどで群衆雪崩が発生するが、ヒトが倒れた後も後続がぐいぐい押してきたという証言がある。
群衆雪崩が起きると、一瞬圧力が下がり前方にスペースができる。
そのスペースを埋めるように後ろの人びとが前へ押し寄せてしまうのだ。
後方では前方で何が起きているか分からない。
前方にスペースができて進むことができるようになったので、「ようやく動き出した。それ行け行け」となってしまったのかもしれない。
残されている映像を見ると、警察官や警備員の姿はどこにもなく、全体を見渡してコントロールしている人がいないことが分かる。
群衆の中には「戻れ戻れ」と手を振って後方に合図を送っている人もいたし、沿道の建物のベランダから眺めている人が群衆の人々を誘導しようとしている姿もあったが、これらの指示や誘導が正しかったのかどうかは分からない。
群衆雪崩発生から、警察官やレスキュー隊が到着したのが1時間後。
それでも、周辺は人であふれかえっており、現場に近づけない。
ようやく救助が始まったのが0時前だったという。
心肺蘇生があちこちで行なわれたが、遅すぎた。
心肺停止から数分で蘇生の可能性は急激に下がる。
数時間後では蘇生は不可能だ。
一度に大量の犠牲者を出してしまった背景にはこのような状況があった。
2022年10月26日
音楽教室の著作権使用料
音楽教室のレッスンで演奏するのにも、著作権法の「演奏権」が及んで、楽曲を管理するJASRAC(日本音楽著作権協会)に著作権使用料を支払う必要があるのか争われた訴訟。
最高裁第一小法廷は10月24日、JASRACの上告を棄却して、生徒の演奏には「演奏権」が及ばないとする判決を言い渡した。
一連の裁判は、JASRACが音楽教室から著作権使用料を徴収すると発表したことをきっかけに、ヤマハ音楽振興会などの音楽教室事業者が、JASRACを相手取り、音楽教室での演奏について、著作権使用料を支払う義務がないことの確認を求める訴訟を起こしたことに始まる。
1審の東京地裁は、音楽教室での教師と生徒による演奏について、その音楽著作物の利用主体は、音楽教室事業者だと判断し、著作権使用料を音楽教室は負担すべきと判決した。
これを不服として音楽教室側が控訴。
2審の判決は、講師の演奏には著作権使用料が発生するが、生徒の演奏には適用されない、というものだった。
今度はJASRAC側が上告。
最高裁では2審を支持し、今回の判決となった。
すっきりしない決着となった。
裁判所としては、100か0かを決めてしまうことの影響が大きすぎると見て、足して2で割るような判決で収めたという印象だ。
判決理由はそれなりに筋は通っているものの、音楽教室側にとってはもやもやしたものが残る。
というのは、そもそも著作権は教育現場には適用されないというのが従来の定説だったからだ。
学校で取り上げる文学作品も、音楽作品も、美術作品も、著作権使用料の対象ではなかった。
試験問題に著作権の切れていない文章が使われたとしても、それが違法とされることはなかった。
その延長で考えれば、音楽教室も同じだろうと考えるのが普通だ。
ところが、JASRACの考えは違う。
公教育の現場と、教育を事業とする現場では話が別だというわけだ。
音楽教室は、他人の著作物を使用して商売をしている。
他人の著作物を勝手に使い、売上を得ているのに、著作権者に使用料を払わないのは許さない。
これがJASRACの基本的な考え方だ。
カラオケ店が著作権料徴取の対象とされるようになったのも、喫茶店や書店で流すBGMが徴取の対象とされるようになったのも、同じ考え方による。
上告審はJASRACの敗訴という形ではあるが、実質はJASRACの勝訴だ。
これで、音楽教室からも著作権使用料を堂々と請求できるようになったからだ。
今後は、音楽教室はJASRACと著作権使用料に関する契約を結ぶことになる。
契約の形式は、いろいろある。
楽曲の使用内容にかかわらず、年間一定額の契約にする。
楽曲の使用内容にかかわらず、売上の一定率の契約にする。
使用した楽曲をその都度申請し、使用料を納付する。
いずれにしても、結果としてこの手間とコスト負担は、生徒らの受講料に反映される。
昔は、街中のいたるところに音楽が流れていた。
街中の通りがかりに聞いた音楽で、「あぁ、いまこの曲が流行ってるんだ」と知ることができたものだ。
いまは、それがなくなった。
ネット上の一部のファンの間で流行っていたとしても、そこにアクセスしない人にとっては、遠い未開部族の音楽と変わらない。
そのせいか、最近の紅白歌合戦では聴いたことのない曲ばかりだ。
JASRACとは、過去に何度もやり取りをしたことがあるが、実に厳密で細かい。
あるホテルでクリスマスディナーを企画した時のこと。
楽器の生演奏を入れることになり、JASRACに申請することにした。
どこで、何時間、どういう客、何人を対象に行うか、使用する楽器は何か、そして、どの楽曲を演奏するのかについて細かく申請する。
ジングルベルとか赤鼻のトナカイなど有名な曲は、著作権が切れていない。
諸人こぞりてなど讃美歌は著作権フリーだ。
讃美歌については個別の曲名は省略し、「讃美歌数曲」とだけ記しておいた。
すると、JASRACから電話があった。
「この讃美歌数曲とはどんな曲ですか」
なんと、讃美歌の曲名まで確認しようとする。
「讃美歌は著作権の対象外ですよね。だから、讃美歌を数曲用意しておいて、時間調整のために使うつもりです」
「ちなみにどんな曲をお考えですか」
「諸人こぞりてとか、アメイジンググレイスとかです。どの曲を使うか、何曲使うかは決まっていません」
「そうですか。では結構です」
JASRACとしては、著作権フリーかどうかを判断するのは自分らであり、申請者が勝手に判断するなということだろう。
個人が申請するこんなちっぽけな案件でも、いい加減に済まさない。
JASRACは実に厳密で細かい。
最高裁第一小法廷は10月24日、JASRACの上告を棄却して、生徒の演奏には「演奏権」が及ばないとする判決を言い渡した。
一連の裁判は、JASRACが音楽教室から著作権使用料を徴収すると発表したことをきっかけに、ヤマハ音楽振興会などの音楽教室事業者が、JASRACを相手取り、音楽教室での演奏について、著作権使用料を支払う義務がないことの確認を求める訴訟を起こしたことに始まる。
1審の東京地裁は、音楽教室での教師と生徒による演奏について、その音楽著作物の利用主体は、音楽教室事業者だと判断し、著作権使用料を音楽教室は負担すべきと判決した。
これを不服として音楽教室側が控訴。
2審の判決は、講師の演奏には著作権使用料が発生するが、生徒の演奏には適用されない、というものだった。
今度はJASRAC側が上告。
最高裁では2審を支持し、今回の判決となった。
すっきりしない決着となった。
裁判所としては、100か0かを決めてしまうことの影響が大きすぎると見て、足して2で割るような判決で収めたという印象だ。
判決理由はそれなりに筋は通っているものの、音楽教室側にとってはもやもやしたものが残る。
というのは、そもそも著作権は教育現場には適用されないというのが従来の定説だったからだ。
学校で取り上げる文学作品も、音楽作品も、美術作品も、著作権使用料の対象ではなかった。
試験問題に著作権の切れていない文章が使われたとしても、それが違法とされることはなかった。
その延長で考えれば、音楽教室も同じだろうと考えるのが普通だ。
ところが、JASRACの考えは違う。
公教育の現場と、教育を事業とする現場では話が別だというわけだ。
音楽教室は、他人の著作物を使用して商売をしている。
他人の著作物を勝手に使い、売上を得ているのに、著作権者に使用料を払わないのは許さない。
これがJASRACの基本的な考え方だ。
カラオケ店が著作権料徴取の対象とされるようになったのも、喫茶店や書店で流すBGMが徴取の対象とされるようになったのも、同じ考え方による。
上告審はJASRACの敗訴という形ではあるが、実質はJASRACの勝訴だ。
これで、音楽教室からも著作権使用料を堂々と請求できるようになったからだ。
今後は、音楽教室はJASRACと著作権使用料に関する契約を結ぶことになる。
契約の形式は、いろいろある。
楽曲の使用内容にかかわらず、年間一定額の契約にする。
楽曲の使用内容にかかわらず、売上の一定率の契約にする。
使用した楽曲をその都度申請し、使用料を納付する。
いずれにしても、結果としてこの手間とコスト負担は、生徒らの受講料に反映される。
昔は、街中のいたるところに音楽が流れていた。
街中の通りがかりに聞いた音楽で、「あぁ、いまこの曲が流行ってるんだ」と知ることができたものだ。
いまは、それがなくなった。
ネット上の一部のファンの間で流行っていたとしても、そこにアクセスしない人にとっては、遠い未開部族の音楽と変わらない。
そのせいか、最近の紅白歌合戦では聴いたことのない曲ばかりだ。
JASRACとは、過去に何度もやり取りをしたことがあるが、実に厳密で細かい。
あるホテルでクリスマスディナーを企画した時のこと。
楽器の生演奏を入れることになり、JASRACに申請することにした。
どこで、何時間、どういう客、何人を対象に行うか、使用する楽器は何か、そして、どの楽曲を演奏するのかについて細かく申請する。
ジングルベルとか赤鼻のトナカイなど有名な曲は、著作権が切れていない。
諸人こぞりてなど讃美歌は著作権フリーだ。
讃美歌については個別の曲名は省略し、「讃美歌数曲」とだけ記しておいた。
すると、JASRACから電話があった。
「この讃美歌数曲とはどんな曲ですか」
なんと、讃美歌の曲名まで確認しようとする。
「讃美歌は著作権の対象外ですよね。だから、讃美歌を数曲用意しておいて、時間調整のために使うつもりです」
「ちなみにどんな曲をお考えですか」
「諸人こぞりてとか、アメイジンググレイスとかです。どの曲を使うか、何曲使うかは決まっていません」
「そうですか。では結構です」
JASRACとしては、著作権フリーかどうかを判断するのは自分らであり、申請者が勝手に判断するなということだろう。
個人が申請するこんなちっぽけな案件でも、いい加減に済まさない。
JASRACは実に厳密で細かい。
2022年10月02日
「安倍氏『国葬』真の意味」と岸田総理の「語る力」
本日付け産経新聞オピニオン欄に、元東京地検検事・井康行氏の寄稿が載っていた。
「安倍氏『国葬』真の意味」と題し、なぜ国葬でなくてはならなかったのかについて諄々と説いている。
ようやくまともな論説に出会った感じだ。
「たとえ、その動機が非政治的なものであったとしても、選挙を奇貨として、遊説中の政治家の命を狙う者は民主主義の敵と言うほかない」
二度とこのようなテロを許さないという、国の固い決意を内外に示す意義があることを理由の第一に述べている。
まことにその通りと納得せざるを得ない。
私たちは、まず、このような卑劣なテロ行為を憎み強く非難するところから始めなければならないはず。
だが、このような意見がほとんど聞かれてこなかった。
マスコミの取り上げる話題は、容疑者の家庭事情に移り、やがて統一教会の実態に及んでいった。
容疑者が「安倍氏が統一教会と関係があると思った」と供述しているのをきっかけとして、今度は自民党政治家と統一教会の関係を追及する方向にマスコミと野党は走り始めた。
まるで、テロリストの意を汲んで、その目的達成を支援しているようだ。
日本では、マスコミ受けする理由付けができれば、テロは目的達成が可能という悪い前例ができてしまった。
そして、安倍政治を憎む左派勢力が勢いづき、国葬反対の気運を盛り上げる。
「法的根拠がない」「国会の決議を経ていない」「弔意の強制は憲法違反」など、国葬反対の理由が挙げられていったが、これらは説得力がなく、国葬反対のために無理やりひねり出した理屈に過ぎない。
要は、安倍氏の業績を礼賛するような場が、国民や国際社会の前に展開してしまうことを阻止したいだけなのだろう。
もっとも不甲斐ないのは、岸田総理の姿勢だ。
早々と国葬実施を決断したのはよかった。
しかし、それを国民に納得させる言葉を持たなかった。
民主主義に敵対するテロ行為への強い怒りが微塵も感じられない。
国葬の理由として4点を挙げていたが、テロに屈しない決意を示すというのは、4番目に付けたしのように述べているだけ。
もしかしたら、彼自身、国葬でなければならない理由をきっちり理解していなかったのではないかとさえ思う。
国葬当日の葬儀委員長としての弔辞の中にも、テロに対する怒り、民主主義を断固として守る決意はどこにも示されなかった。
あれでは、病気や自然災害で大事な人を失ったときの弔辞と変わらない。
(友人代表の菅前総理の弔辞では、理不尽なテロ行為に対する怒りが感じられた)
岸田総理は、総裁選のころから「聞く力」を自らの得意技としきりにアピールしていた。
「聞く力」だけではリーダーは務まらないのではと危惧したが、それは現実のものとなった。
彼には「語る力」が致命的に欠落している。
「安倍氏『国葬』真の意味」と題し、なぜ国葬でなくてはならなかったのかについて諄々と説いている。
ようやくまともな論説に出会った感じだ。
「たとえ、その動機が非政治的なものであったとしても、選挙を奇貨として、遊説中の政治家の命を狙う者は民主主義の敵と言うほかない」
二度とこのようなテロを許さないという、国の固い決意を内外に示す意義があることを理由の第一に述べている。
まことにその通りと納得せざるを得ない。
私たちは、まず、このような卑劣なテロ行為を憎み強く非難するところから始めなければならないはず。
だが、このような意見がほとんど聞かれてこなかった。
マスコミの取り上げる話題は、容疑者の家庭事情に移り、やがて統一教会の実態に及んでいった。
容疑者が「安倍氏が統一教会と関係があると思った」と供述しているのをきっかけとして、今度は自民党政治家と統一教会の関係を追及する方向にマスコミと野党は走り始めた。
まるで、テロリストの意を汲んで、その目的達成を支援しているようだ。
日本では、マスコミ受けする理由付けができれば、テロは目的達成が可能という悪い前例ができてしまった。
そして、安倍政治を憎む左派勢力が勢いづき、国葬反対の気運を盛り上げる。
「法的根拠がない」「国会の決議を経ていない」「弔意の強制は憲法違反」など、国葬反対の理由が挙げられていったが、これらは説得力がなく、国葬反対のために無理やりひねり出した理屈に過ぎない。
要は、安倍氏の業績を礼賛するような場が、国民や国際社会の前に展開してしまうことを阻止したいだけなのだろう。
もっとも不甲斐ないのは、岸田総理の姿勢だ。
早々と国葬実施を決断したのはよかった。
しかし、それを国民に納得させる言葉を持たなかった。
民主主義に敵対するテロ行為への強い怒りが微塵も感じられない。
国葬の理由として4点を挙げていたが、テロに屈しない決意を示すというのは、4番目に付けたしのように述べているだけ。
もしかしたら、彼自身、国葬でなければならない理由をきっちり理解していなかったのではないかとさえ思う。
国葬当日の葬儀委員長としての弔辞の中にも、テロに対する怒り、民主主義を断固として守る決意はどこにも示されなかった。
あれでは、病気や自然災害で大事な人を失ったときの弔辞と変わらない。
(友人代表の菅前総理の弔辞では、理不尽なテロ行為に対する怒りが感じられた)
岸田総理は、総裁選のころから「聞く力」を自らの得意技としきりにアピールしていた。
「聞く力」だけではリーダーは務まらないのではと危惧したが、それは現実のものとなった。
彼には「語る力」が致命的に欠落している。
2022年07月11日
緊急事態が苦手な私たち
安倍元総理の暗殺事件。
現代日本で、重要政治家の暗殺が起きたことの衝撃が日本中を駆け巡った。
いま、話題の焦点は、警備の問題に移りつつある。
犯人は、まったくの素人で、手製拳銃を使用し、たった2発の射撃で、要人の命を奪うことに成功した。
SPや警察は何をしていたのか。
犯人は、数か月前から準備を進め、安倍元総理の応援演説のスケジュールを確認しては、その会場に出かけていたらしい。
ただ他の会場では襲撃のチャンスが見いだせず、行動に移すことがなかった。
それが、7日の夜に安倍氏のスケジュール変更があり、急遽、奈良市にやってくることが判明。
1時間も前から会場周辺を徘徊しながら現場確認をしていたようだ。
残された映像を見ると、警備の一瞬のスキを狙って素早く行動したようには見えない。
悠然と移動し、落ち着いて銃を取り出しながらターゲットに接近し、十分に狙いを定めて射撃している。
ここから、まったく警備員の警戒が行われていなかったことが分かる。
もしも、360度どの方向にも警備員の厳しい視線が向けられていれば、犯人は襲撃のタイミングを失い、行動に移せなかっただろう。
この犯行を誘発したのは、警備の緩さだったのではないか。
後知恵で講釈すれば、犯人が車道に進み出て要人の背後から接近する動きを見せたところで、制止することができた。
これなど、別に街頭演説中でなくとも、歩行者が車道にふらふら歩み出たら、警官に制止される状況だ。
これすら行われていなかったということからも、いかに警戒が緩かったかが分かる。
今回の犯行は、素人による単独犯であったために、阻止は容易だったと評価されている。
だが、これがプロのテロ集団による犯行だったらどうなっていたか。
遠方のビルの屋上から狙撃する。
自動車を暴走させて猛スピードで突っ込む。
爆弾を抱いて要人に突撃し自爆テロを行なう。
爆発音で一方向に注意を向けさせているすきに、別の方向から近づいて襲う。
最悪の事態は考えればきりがないし、今の日本でどこまでそんな可能性を想定する必要があるか、との議論もある。
だが、最悪を考えたらきりがないということを言い訳に、考えることをやめてしまうと、今回のようなことが容易に起きてしまう。
「最悪に備えよ」ということの意味は、ここにある。
さて、襲撃場面の動画を見て気づいたことがある。
1発目の銃声が聞こえた時の人びとの行動だ。
誰もがハッとして音の方向に注目するものの、体は固まったままだ。
安倍氏も一瞬固まり、そのまま後ろを振り返る動作をしている。
不思議なのは、その時集まっていた観衆だ。
みんなその場にとどまり、様子を見守っている。
中には、もっとよく見ようと歩み寄る人もいるほどだ。
今回の射撃は2回で終わったが、他にも犯人グループがいた場合、3発目、4発目がどこかから発射されるかもしれないではないか。
その場の観衆の行動としては、一刻も早く現場から遠ざかるというのが正解となる。
アメリカでは銃による無差別の襲撃というのがよく起きる。
その襲撃場面を捉えた映像を見ると、銃の発射音が聞こえると同時に、群衆が一斉に走り出す様子が写っている。
「爆発音を聞いたらすぐに逃げる」というのが体に染みついた基本行動になっているのだろう。
日本では防災訓練が学校でも職場でも行われている。
火災が起きたら、地震が起きたら、という想定で避難訓練をする。
アメリカでは、どのような訓練が行われるのかというと、爆弾テロが起きたときどう行動するかを想定するのだそうだ。。
だから、爆発音が聞こえると同時に、体がすぐに反応するのだ。
ある職場での話を知人に聞いた。
ある時、緊急地震速報のアラームが鳴りだした。
知人は直ちにやりかけの仕事を中断し、素早く机の下にもぐった。
アラームに直ちに反応して行動を起こしたのは彼だけだった。
結果として、その速報は誤報だったようで、地震の揺れは感じることがなかった。
その時、知人は周りの人たちに笑われたのだという。
「何をそんなにビビってんの?」「お前はいつも大げさだなぁ」
知人は、そのことを私に語りながら不満を漏らしていた。
「どうして、いち早く行動を起こした人間が笑われなければいけないのか」
まことにその通りだ。
私たち日本人は緊急事態が苦手だ。
とっさに率先行動を起こすことは特に苦手だ。
今回のテロ事件でそのことを改めて思い知らされた。
現代日本で、重要政治家の暗殺が起きたことの衝撃が日本中を駆け巡った。
いま、話題の焦点は、警備の問題に移りつつある。
犯人は、まったくの素人で、手製拳銃を使用し、たった2発の射撃で、要人の命を奪うことに成功した。
SPや警察は何をしていたのか。
犯人は、数か月前から準備を進め、安倍元総理の応援演説のスケジュールを確認しては、その会場に出かけていたらしい。
ただ他の会場では襲撃のチャンスが見いだせず、行動に移すことがなかった。
それが、7日の夜に安倍氏のスケジュール変更があり、急遽、奈良市にやってくることが判明。
1時間も前から会場周辺を徘徊しながら現場確認をしていたようだ。
残された映像を見ると、警備の一瞬のスキを狙って素早く行動したようには見えない。
悠然と移動し、落ち着いて銃を取り出しながらターゲットに接近し、十分に狙いを定めて射撃している。
ここから、まったく警備員の警戒が行われていなかったことが分かる。
もしも、360度どの方向にも警備員の厳しい視線が向けられていれば、犯人は襲撃のタイミングを失い、行動に移せなかっただろう。
この犯行を誘発したのは、警備の緩さだったのではないか。
後知恵で講釈すれば、犯人が車道に進み出て要人の背後から接近する動きを見せたところで、制止することができた。
これなど、別に街頭演説中でなくとも、歩行者が車道にふらふら歩み出たら、警官に制止される状況だ。
これすら行われていなかったということからも、いかに警戒が緩かったかが分かる。
今回の犯行は、素人による単独犯であったために、阻止は容易だったと評価されている。
だが、これがプロのテロ集団による犯行だったらどうなっていたか。
遠方のビルの屋上から狙撃する。
自動車を暴走させて猛スピードで突っ込む。
爆弾を抱いて要人に突撃し自爆テロを行なう。
爆発音で一方向に注意を向けさせているすきに、別の方向から近づいて襲う。
最悪の事態は考えればきりがないし、今の日本でどこまでそんな可能性を想定する必要があるか、との議論もある。
だが、最悪を考えたらきりがないということを言い訳に、考えることをやめてしまうと、今回のようなことが容易に起きてしまう。
「最悪に備えよ」ということの意味は、ここにある。
さて、襲撃場面の動画を見て気づいたことがある。
1発目の銃声が聞こえた時の人びとの行動だ。
誰もがハッとして音の方向に注目するものの、体は固まったままだ。
安倍氏も一瞬固まり、そのまま後ろを振り返る動作をしている。
不思議なのは、その時集まっていた観衆だ。
みんなその場にとどまり、様子を見守っている。
中には、もっとよく見ようと歩み寄る人もいるほどだ。
今回の射撃は2回で終わったが、他にも犯人グループがいた場合、3発目、4発目がどこかから発射されるかもしれないではないか。
その場の観衆の行動としては、一刻も早く現場から遠ざかるというのが正解となる。
アメリカでは銃による無差別の襲撃というのがよく起きる。
その襲撃場面を捉えた映像を見ると、銃の発射音が聞こえると同時に、群衆が一斉に走り出す様子が写っている。
「爆発音を聞いたらすぐに逃げる」というのが体に染みついた基本行動になっているのだろう。
日本では防災訓練が学校でも職場でも行われている。
火災が起きたら、地震が起きたら、という想定で避難訓練をする。
アメリカでは、どのような訓練が行われるのかというと、爆弾テロが起きたときどう行動するかを想定するのだそうだ。。
だから、爆発音が聞こえると同時に、体がすぐに反応するのだ。
ある職場での話を知人に聞いた。
ある時、緊急地震速報のアラームが鳴りだした。
知人は直ちにやりかけの仕事を中断し、素早く机の下にもぐった。
アラームに直ちに反応して行動を起こしたのは彼だけだった。
結果として、その速報は誤報だったようで、地震の揺れは感じることがなかった。
その時、知人は周りの人たちに笑われたのだという。
「何をそんなにビビってんの?」「お前はいつも大げさだなぁ」
知人は、そのことを私に語りながら不満を漏らしていた。
「どうして、いち早く行動を起こした人間が笑われなければいけないのか」
まことにその通りだ。
私たち日本人は緊急事態が苦手だ。
とっさに率先行動を起こすことは特に苦手だ。
今回のテロ事件でそのことを改めて思い知らされた。
2022年06月03日
世界の新型コロナは実質的に収束した
イギリスのエリザベス女王の在位70年記念行事が華々しく開催された。
女王の姿やパレードの様子を見ようと大勢の人が街に繰り出し、宮殿の前に集合した。
この日は祝日になったらしく、国を挙げてのお祭り騒ぎだ。
その様子を見て、気づいたことがある。
誰もマスクをしていないのだ。
かなりの人出で、立錐の余地もないほどの群衆だ。
他人との距離も近い。
おしゃべりもしているし、歓声も上げている。
それでも、マスクをしている人がいない。
イギリスのコロナ状況は、今どうなっているのかというと、6月1日時点で5300人の新規陽性者数だ。
いつの間にか、こんなにも状況が収まっていたのだ。
イギリスではかなり早いうちから、行動制限の全面解除に踏み切った。
一時はなかなか感染状況が収まらず、解除が早すぎたのではとの批判もあったが、首相はかたくなに全面解除を維持し続けた。
ワクチン接種が進み、重症者や死亡者がある程度抑えられるという見込みが立ったからだ。
その後、大規模スポーツイベントなどが通常規模で行われて、再燃が心配されたが、杞憂に終わり、いまはほとんど収束状態にある。
収束状態にあるのはイギリスだけではない。
ドイツもフランスもアメリカも同じだ。
日本も同じく収束の局面にあり、感染拡大率はどの都道府県でも1を切っている。
それでも、日本ではマスクが外せない。
ようやく「屋外で人と話さないのであれば、必ずしも必要ではない」とものすごく消極的な不要論が出始めたところ。
日本人は世界で最初にマスクを着け、世界で最後までマスクを着け続ける国民になりそうだ。
女王の姿やパレードの様子を見ようと大勢の人が街に繰り出し、宮殿の前に集合した。
この日は祝日になったらしく、国を挙げてのお祭り騒ぎだ。
その様子を見て、気づいたことがある。
誰もマスクをしていないのだ。
かなりの人出で、立錐の余地もないほどの群衆だ。
他人との距離も近い。
おしゃべりもしているし、歓声も上げている。
それでも、マスクをしている人がいない。
イギリスのコロナ状況は、今どうなっているのかというと、6月1日時点で5300人の新規陽性者数だ。
いつの間にか、こんなにも状況が収まっていたのだ。
イギリスではかなり早いうちから、行動制限の全面解除に踏み切った。
一時はなかなか感染状況が収まらず、解除が早すぎたのではとの批判もあったが、首相はかたくなに全面解除を維持し続けた。
ワクチン接種が進み、重症者や死亡者がある程度抑えられるという見込みが立ったからだ。
その後、大規模スポーツイベントなどが通常規模で行われて、再燃が心配されたが、杞憂に終わり、いまはほとんど収束状態にある。
収束状態にあるのはイギリスだけではない。
ドイツもフランスもアメリカも同じだ。
日本も同じく収束の局面にあり、感染拡大率はどの都道府県でも1を切っている。
それでも、日本ではマスクが外せない。
ようやく「屋外で人と話さないのであれば、必ずしも必要ではない」とものすごく消極的な不要論が出始めたところ。
日本人は世界で最初にマスクを着け、世界で最後までマスクを着け続ける国民になりそうだ。