ビッグモーターの悪事は底なしの様子。
Googleマップの店舗情報には、カスタマーレビューが書き込まれていることがあり、それでこの店舗の評判を知ることができる。
ビッグモーターの店舗のレビューを見ると、高評価と低評価が極端に分かれている。
高評価のレビューは、歯の浮いたような誉め言葉が短文で書いてあるだけで具体性がない。
しかも、レビュアーの投稿歴はこれ1本のことが多い。
サクラによる投稿であることがまるわかり。
一方、低評価のレビューは、長文で具体的だ。
実体験に基づいた評価だということが分かる。
そして、その内容は目を疑うようなものばかり。
客をぞんざいに扱う、途中で言うことがころころ変わる、上司のご機嫌ばかりうかがっている、などなど。
しかも、どこの店舗でも同じようなレビューがみられることに驚く。
つまり、ある店舗の悪質な店員による不手際、ということではなく、全社的な経営姿勢が現場の店員の顧客対応に表れているということだ。
この経営姿勢が、保険金の不正請求につながっているのだろう。
ビッグモーターの悪事は信じられないことが多いが、その中の1つに、店舗前の街路樹の問題がある。
ビッグモーターの店舗前の街路樹だけ不自然に枯死してる事例が多数見つかったのだ。
Googleストリートビューでは、現在の道路沿いの様子を確認することができるが、過去にさかのぼって沿道の変化を見ることができる。
すると、初めは青々と茂っていた街路樹が、突然枯れ始め、やがては伐採されて切り株だけになっていく様子が確認できるのだ。
ストリートビューの威力を再確認した。
このストリートビューサービスは、2007年から始まった。翌年には日本でも。
当初は、その目的が不明だった。
なぜ、Googleは世界中の街中の様子を映像で記録しようとするのか。
コストばかりかかって、リターンのないサービスに意味があるのか。
「世界中のあらゆる情報をデジタル化し、利用可能にする」というのがGoogleの基本コンセプト。
目的は後回しで、このコンセプトに合致するものは次々にデジタル化を進めて行く。
その一環でストリートビューが始まった。
サービスが始まって15年が経過し、過去のデータが蓄積することで、タイムマシン機能を使えるようになった。
タイムマシン機能とは、過去の好きな時点にさかのぼって、その時の街の様子を画像で確認できる機能。
今になって、この機能の重要性がクローズアップされている。
ビッグモーター前の街路樹の変化が確認できるのも、このおかげ。
最近は町の様子の変化も激しい。
昔の建屋が壊されて近代的なビルに生まれ変わることも。
その時、ストリートビューで過去の風景を引っ張り出して、ここには昔何があったのかを確認できる。
もっと実用的な活用法もある。
土地の境界の争いで、過去の建物がどのように立っていたかは、記録に残していない場合は、ヒトの記憶に頼るしかなくなってしまう。
その場合、ストリートビューは有効だ。
「何年の何月時点では、ここにこのような建物が建っていた」ことを客観的な証拠として裁判で示すことができる。
ストリートビューは、当初は主要都市が中心だったが、いまや地方の路地裏までカバーするようになった。
未知のロケーションのクライアント先に初めて訪れるとき、事前にストリートビューで町の風景を確認してから向かうことが多い。
すると、初めての土地でも見覚えのある風景を確認し、迷うことなく目的地にたどり着ける。
Googleの「あらゆる情報を利用可能にする」というコンセプトは、なるほど私たちの生活に役に立っている。
2023年07月30日
2023年07月26日
久しぶりの拙劣な謝罪会見
ビッグモーターの創業者社長がようやく謝罪会見を行なった。
予想されたことではあるが、とても謝罪会見とは言えないひどいものだった。
過去、ひどい謝罪会見はたくさんあるが、船場吉兆、ミートホープに続くトップスリーに含まれる。
ビッグモーターは中古車販売の大手。CMを大量に流しており知名度も高い。
不正問題は、2022年初めに発覚したが、ビッグモーターは当初、不正ではなく過失によるものだと主張していた。
しかし、外部の弁護士が行った調査報告書によると、ビッグモーターの全国33工場すべてで水増し請求の疑義があり、本社サイドが過度な営業ノルマを課していたことが明らかとなる。
社長が1年間の報酬を受け取らないという発表をした以外、これまで何の動きもなかった。
嵐が過ぎ去るのを待てば、やり過ごせると考えていたのか。
ところが、動きが鈍かったマスコミが報道し始めたために様子が変わってきた。
世論が沸騰し、それに応じて、国交省、経産省、金融庁までも調査に動き出すに及んで、事態がどんどんひどくなっていく。
たまりかねたか、25日になってようやく社長自らの謝罪会見となった。
会見の趣旨は、創業者社長と息子の副社長が26日付で引責辞任する、不正は板金塗装部門が勝手にやったことで幹部は知らなかった、というもの。
全国33工場のすべてで不正請求の疑義が出ている中、経営トップが知らなかったで逃げ切ろうとする神経のずぶとさに驚く。
記者が今回の不正の内容について具体的に質問するが、発言は第三者のコメンテーターのような回答に終始した。
「驚いている」「許せない」「普通はやりませんよね」などとまったく当事者意識が欠落していた。
時々、表情が半笑いになってしまうのは、自分を第三者の立場において「私もあきれ返っている」という姿勢を見せているのだろう。
極めつけは、ゴルフボールを靴下に入れて車体に傷をつけていたことに対し、「ゴルフを愛する人に対する冒涜です」と頓珍漢な答え。
「そこじゃないだろう!」と全国民から突っ込みが入りそうだ。
この謝罪会見が失敗である理由は、誰に対して何を謝罪しているのか分からないからだ。
「申し訳ございません」と頭を下げたが、いったい誰に対して謝罪しているのか分からない。
わざと傷をつけた自動車の持ち主であるお客様に対してか。
保険金の不正請求をした先の保険会社に対してか。
業界の信用を失ってしまったことに対する同業者への謝罪か。
事業者にとって最も大事なのはお客様のはずだが、この社長にはお客様の信頼を裏切ってしまったことへの申し訳ない気持ちがまったく見られない。
「ゴルフを愛する人に対する冒涜です」という答えになるのは、この社長にとって、お客様よりもゴルフの方が大事だという認識が無意識に出てしまったのだろう。
経営トップに座り、売上の向上ばかりを意識し、現場でお客様に向き合うことを忘れてしまっているようだ。
これが上場企業だったら、社長辞任だけでは終わらず、株主代表訴訟で、旧経営陣は損害賠償で身ぐるみ剝がされる。
この場合、「知らなかった」は許されない。
本当に知らなかったとしたら、それは知っていて見過ごしていたよりも責任が重大と判断される。
だが、非上場企業であり、株式は創業者一族で独占しているので、株主代表訴訟は起きない。
店舗前の街路樹に除草剤を撒き、葉を枯らして店の看板が道路から見えやすくするようなこともしていたようだ。
ビッグモーターの経営姿勢は、根本から腐っていたというほかない。
まだ、その全容は明らかになっていない。
今後の調査で少しずつ実態が判明していく。
ビッグモーターは、このまま事業継続は無理だ。
従業員の雇用を守るためには、同業者に吸収合併してもらうしかない。
その時、創業者一族が保有している株式は無償譲渡とならざるを得ない。
合併した側は、組織改革を行い、従業員教育をやり直し、お客様の信頼回復を目指さなくてはならない。
無償でも高い買い物になりそうだ。
予想されたことではあるが、とても謝罪会見とは言えないひどいものだった。
過去、ひどい謝罪会見はたくさんあるが、船場吉兆、ミートホープに続くトップスリーに含まれる。
ビッグモーターは中古車販売の大手。CMを大量に流しており知名度も高い。
不正問題は、2022年初めに発覚したが、ビッグモーターは当初、不正ではなく過失によるものだと主張していた。
しかし、外部の弁護士が行った調査報告書によると、ビッグモーターの全国33工場すべてで水増し請求の疑義があり、本社サイドが過度な営業ノルマを課していたことが明らかとなる。
社長が1年間の報酬を受け取らないという発表をした以外、これまで何の動きもなかった。
嵐が過ぎ去るのを待てば、やり過ごせると考えていたのか。
ところが、動きが鈍かったマスコミが報道し始めたために様子が変わってきた。
世論が沸騰し、それに応じて、国交省、経産省、金融庁までも調査に動き出すに及んで、事態がどんどんひどくなっていく。
たまりかねたか、25日になってようやく社長自らの謝罪会見となった。
会見の趣旨は、創業者社長と息子の副社長が26日付で引責辞任する、不正は板金塗装部門が勝手にやったことで幹部は知らなかった、というもの。
全国33工場のすべてで不正請求の疑義が出ている中、経営トップが知らなかったで逃げ切ろうとする神経のずぶとさに驚く。
記者が今回の不正の内容について具体的に質問するが、発言は第三者のコメンテーターのような回答に終始した。
「驚いている」「許せない」「普通はやりませんよね」などとまったく当事者意識が欠落していた。
時々、表情が半笑いになってしまうのは、自分を第三者の立場において「私もあきれ返っている」という姿勢を見せているのだろう。
極めつけは、ゴルフボールを靴下に入れて車体に傷をつけていたことに対し、「ゴルフを愛する人に対する冒涜です」と頓珍漢な答え。
「そこじゃないだろう!」と全国民から突っ込みが入りそうだ。
この謝罪会見が失敗である理由は、誰に対して何を謝罪しているのか分からないからだ。
「申し訳ございません」と頭を下げたが、いったい誰に対して謝罪しているのか分からない。
わざと傷をつけた自動車の持ち主であるお客様に対してか。
保険金の不正請求をした先の保険会社に対してか。
業界の信用を失ってしまったことに対する同業者への謝罪か。
事業者にとって最も大事なのはお客様のはずだが、この社長にはお客様の信頼を裏切ってしまったことへの申し訳ない気持ちがまったく見られない。
「ゴルフを愛する人に対する冒涜です」という答えになるのは、この社長にとって、お客様よりもゴルフの方が大事だという認識が無意識に出てしまったのだろう。
経営トップに座り、売上の向上ばかりを意識し、現場でお客様に向き合うことを忘れてしまっているようだ。
これが上場企業だったら、社長辞任だけでは終わらず、株主代表訴訟で、旧経営陣は損害賠償で身ぐるみ剝がされる。
この場合、「知らなかった」は許されない。
本当に知らなかったとしたら、それは知っていて見過ごしていたよりも責任が重大と判断される。
だが、非上場企業であり、株式は創業者一族で独占しているので、株主代表訴訟は起きない。
店舗前の街路樹に除草剤を撒き、葉を枯らして店の看板が道路から見えやすくするようなこともしていたようだ。
ビッグモーターの経営姿勢は、根本から腐っていたというほかない。
まだ、その全容は明らかになっていない。
今後の調査で少しずつ実態が判明していく。
ビッグモーターは、このまま事業継続は無理だ。
従業員の雇用を守るためには、同業者に吸収合併してもらうしかない。
その時、創業者一族が保有している株式は無償譲渡とならざるを得ない。
合併した側は、組織改革を行い、従業員教育をやり直し、お客様の信頼回復を目指さなくてはならない。
無償でも高い買い物になりそうだ。
2023年07月09日
画像生成AIの実力
AIの話題が続く。
生成AIは、大規模言語モデルに基づいているので、基本は言葉によるやり取りが主体だ。
ところが、言葉による指定で、画像による回答ができるAIが存在する。
画像生成AIだ。
いま、ネット上にはAIによって作成された画像が大量に存在するようになった。
以前は、見るからに作られた画像というのが一目でわかるようなものばかりだったが、AI技術が日々向上していることと、プロンプトの巧みさによって、ものすごくリアルで美しい画像を見ることができる。
美しい自然の風景など、お手の物だ。
現実には存在しない風景でも、リアルに再現できる。
どこかで見たことがあるような風景だが、どこだか特定できない。
不思議なリアル感がある。
プロの写真家の中には、世界の自然の風景を探し求め、何日も同じ場所で粘りに粘って奇跡的な一瞬をとらえた貴重な写真を撮り続けている人もいる。
その写真家は、個展を開く際、「これらの写真は、CGやAIによるものではありません」と断り書きを掲示しなければならなくなった。
ただ美しいだけの写真は、AIで瞬時に作れるようになってしまったのだ。
人物の画像もAIで簡単に作れる。
人の表情は難しく、僅かな違和感でも、偽物と見破られてしまう。
だが、最近のAI画像は、不自然さがなくなってきた。
本物のモデルを使って撮影したのではないかと錯覚するほどの出来栄えだ。
画像に映っている人物は、現実には存在しないので、肖像権も人格権もない。
そのモデルに、いろんな服を着せ、いろんな場所で、いろんなポーズを取らせることができる。
納得できるまで、何度も繰り返すことができる。
本物のモデルを使うよりも、完成度の高い作品ができるのではと思えてしまう。
ところが、細かく見ると、限界が見える。
影のでき方が不自然。
手の向きがおかしい。
洋服のデザインが変。
背景の建物が物理的に建築不可能。
やはり、AIはこんなところまで考えていない。
細かいおかしいところは、人間が見て修正するしかないのだろう。
しかし、作り物であることは承知で、美しい画像として楽しむ分には何ら問題ないし、十分、鑑賞に堪えられるレベルに達しているといえる。
プロの画家が描いた絵であっても、それは作り物であるのだし、有名な絵画でも、影がおかしかったり、手の位置が不自然だったりというのは当たり前にある。
だからと言って、その作品の価値が失われることはない。
生成AIによる画像も、同じだろう。
これからは、簡単なイメージ画像だったら、AIで十分だ。
むしろ、こちらの希望で細かい注文通りの画像を作れるという点では、画像素材集などいらなくなるだろう。
問題は、AIの作った画像の著作権や使用権は誰にあるのか、ということだ。
この問題はクリアできていない。
AIがまだ発展途上にあること、そして、使用する側も本当の利用方法に習熟していないことで、どのような著作権の在り方が妥当なのかの結論が出ないのだ。
しばらくは、試行錯誤が続く。
生成AIは、大規模言語モデルに基づいているので、基本は言葉によるやり取りが主体だ。
ところが、言葉による指定で、画像による回答ができるAIが存在する。
画像生成AIだ。
いま、ネット上にはAIによって作成された画像が大量に存在するようになった。
以前は、見るからに作られた画像というのが一目でわかるようなものばかりだったが、AI技術が日々向上していることと、プロンプトの巧みさによって、ものすごくリアルで美しい画像を見ることができる。
美しい自然の風景など、お手の物だ。
現実には存在しない風景でも、リアルに再現できる。
どこかで見たことがあるような風景だが、どこだか特定できない。
不思議なリアル感がある。
プロの写真家の中には、世界の自然の風景を探し求め、何日も同じ場所で粘りに粘って奇跡的な一瞬をとらえた貴重な写真を撮り続けている人もいる。
その写真家は、個展を開く際、「これらの写真は、CGやAIによるものではありません」と断り書きを掲示しなければならなくなった。
ただ美しいだけの写真は、AIで瞬時に作れるようになってしまったのだ。
人物の画像もAIで簡単に作れる。
人の表情は難しく、僅かな違和感でも、偽物と見破られてしまう。
だが、最近のAI画像は、不自然さがなくなってきた。
本物のモデルを使って撮影したのではないかと錯覚するほどの出来栄えだ。
画像に映っている人物は、現実には存在しないので、肖像権も人格権もない。
そのモデルに、いろんな服を着せ、いろんな場所で、いろんなポーズを取らせることができる。
納得できるまで、何度も繰り返すことができる。
本物のモデルを使うよりも、完成度の高い作品ができるのではと思えてしまう。
ところが、細かく見ると、限界が見える。
影のでき方が不自然。
手の向きがおかしい。
洋服のデザインが変。
背景の建物が物理的に建築不可能。
やはり、AIはこんなところまで考えていない。
細かいおかしいところは、人間が見て修正するしかないのだろう。
しかし、作り物であることは承知で、美しい画像として楽しむ分には何ら問題ないし、十分、鑑賞に堪えられるレベルに達しているといえる。
プロの画家が描いた絵であっても、それは作り物であるのだし、有名な絵画でも、影がおかしかったり、手の位置が不自然だったりというのは当たり前にある。
だからと言って、その作品の価値が失われることはない。
生成AIによる画像も、同じだろう。
これからは、簡単なイメージ画像だったら、AIで十分だ。
むしろ、こちらの希望で細かい注文通りの画像を作れるという点では、画像素材集などいらなくなるだろう。
問題は、AIの作った画像の著作権や使用権は誰にあるのか、ということだ。
この問題はクリアできていない。
AIがまだ発展途上にあること、そして、使用する側も本当の利用方法に習熟していないことで、どのような著作権の在り方が妥当なのかの結論が出ないのだ。
しばらくは、試行錯誤が続く。
生成AIによる知的生産性
生成AIが面白い。
生成AIでいったい何ができて、何ができないのか。
いまは、遊びながらその実態を把握する段階。
なるほど、と舌を巻く点もあれば、これではダメだな、とがっかりすることも。
だが、これはビジネスにおいても有効なツールであることは間違いない。
特に、知的な業務を行なっている者にとって、生産性向上のためにAIを使うことの威力は大きい。
今回、あるテーマについて4000文字の原稿依頼を受けたので、試しに生成AIにプロットを作らせてみた。
「はじめに」から「第1章」「第2章」「第3章」そして「おわりに」まで、瞬時に目次案が出来上がった。
内容を見ると、悪くない。
このプロットに沿って書いていけば、過不足なくバランスのいい原稿ができそうな感じがする。
それそれの見出しについて、更に細かく指示を繰り返していけば、最終原稿までAIに作らせることができそうだ。
ところが、限界もある。
このプロット、細かく内容を見ると、おかしいところがそこかしこにある。
テーマと直接関係のない話が入っていたり、言葉の間違いが含まれていたり。。。
一般の人には分からないかもしれないが、専門家の目で見るとたちどころにおかしいところが分かる。
もう1つの限界は、内容に特徴がないこと。
一般的な当たり障りのない内容でまとめられていて、とがった主張や個性はない。
ネット上のどこにでも転がっている話題をまとめただけという感じにしかならない。
この内容で原稿を書いたとしても、何の印象も残らない凡庸な文章になってしまう。
これが、学生が課題レポートを作成するのだったら、この程度の文章で及第点はもらえるだろう。
だが、私はプロとして報酬をいただいて原稿を書く。
凡庸な文章を公開していては、自らの無能を晒すことになりかねない。
これでプロとして生成AIをどう使ったらいいかが分かる。
標準的な構成案はどんな内容になるのかをAIに作ってもらう。
それに、自分自身のオリジナリティの味付けをして最終原稿を仕上げる。
このオリジナリティをどこにどれだけ入れるかで作品の良しあしが決まりそうだ。
標準とオリジナリティのバランスをどうするか。
標準100%の文章は印象に残らない。
逆に、オリジナリティ100%の文章は、個性が強すぎて受け入れてもらえない。
ある程度すんなり受け入れてもらえて、オリジナリティを感じる文章はどのぐらいのバランスだろうか。
オリジナリティが2割から4割ぐらいかな、という感触だが、まだ自信がない。
いずれにしても、生成AIの登場で知的生産性が格段に向上するのは間違いなさそうだ。
生成AIでいったい何ができて、何ができないのか。
いまは、遊びながらその実態を把握する段階。
なるほど、と舌を巻く点もあれば、これではダメだな、とがっかりすることも。
だが、これはビジネスにおいても有効なツールであることは間違いない。
特に、知的な業務を行なっている者にとって、生産性向上のためにAIを使うことの威力は大きい。
今回、あるテーマについて4000文字の原稿依頼を受けたので、試しに生成AIにプロットを作らせてみた。
「はじめに」から「第1章」「第2章」「第3章」そして「おわりに」まで、瞬時に目次案が出来上がった。
内容を見ると、悪くない。
このプロットに沿って書いていけば、過不足なくバランスのいい原稿ができそうな感じがする。
それそれの見出しについて、更に細かく指示を繰り返していけば、最終原稿までAIに作らせることができそうだ。
ところが、限界もある。
このプロット、細かく内容を見ると、おかしいところがそこかしこにある。
テーマと直接関係のない話が入っていたり、言葉の間違いが含まれていたり。。。
一般の人には分からないかもしれないが、専門家の目で見るとたちどころにおかしいところが分かる。
もう1つの限界は、内容に特徴がないこと。
一般的な当たり障りのない内容でまとめられていて、とがった主張や個性はない。
ネット上のどこにでも転がっている話題をまとめただけという感じにしかならない。
この内容で原稿を書いたとしても、何の印象も残らない凡庸な文章になってしまう。
これが、学生が課題レポートを作成するのだったら、この程度の文章で及第点はもらえるだろう。
だが、私はプロとして報酬をいただいて原稿を書く。
凡庸な文章を公開していては、自らの無能を晒すことになりかねない。
これでプロとして生成AIをどう使ったらいいかが分かる。
標準的な構成案はどんな内容になるのかをAIに作ってもらう。
それに、自分自身のオリジナリティの味付けをして最終原稿を仕上げる。
このオリジナリティをどこにどれだけ入れるかで作品の良しあしが決まりそうだ。
標準とオリジナリティのバランスをどうするか。
標準100%の文章は印象に残らない。
逆に、オリジナリティ100%の文章は、個性が強すぎて受け入れてもらえない。
ある程度すんなり受け入れてもらえて、オリジナリティを感じる文章はどのぐらいのバランスだろうか。
オリジナリティが2割から4割ぐらいかな、という感触だが、まだ自信がない。
いずれにしても、生成AIの登場で知的生産性が格段に向上するのは間違いなさそうだ。
2023年06月04日
生成AIの実力
生成AIが話題だ。
MicrosoftのBingAIを試してみた。
なるほど、従来の検索エンジンとは全く違う。
かなり利用の幅が広がる。
これは、利用者の力量が問われるツールになりそうだ。
単純な知識確認の回答はお手の物だが、少し複雑な文章も理解して的確に反応しているように見える。
一番の脅威は、外国語のニュースサイトを日本語で要約させる作業だ。
違和感のない日本語で要点だけをピックアップしてくれる。
これには人間をしのぐ能力がある。
そのほかの調べものについては、まあまあといったところ。
まじめな学生アルバイト程度の働きはしてくれる。
問題は、回答の正確性だ。
私の専門外の分野、例えば化学反応について質問すると、実に分かりやすく的確な回答をしているように見える。
ところが、私の専門分野について質問してみると、その化けの皮がはがれる。
ネット上で見つかる表面上の情報をかき集めてまとめただけだというのがよくわかる。
時には、完全に間違った回答をしてくることも。
それも、堂々と自信たっぷりに間違えるのだ。
信頼するには頼りないが、簡単な雑用ならこなせるといった感じか。
AIは算数の計算もできるとの噂を聞いて、試してみた。
以下の文章題を作り、投げかけた。
------------------------------------------------------
Aさんは家を出て時速4qで駅に向かって歩き始めた。
母親がAさんの忘れ物に気づいて、5分後に時速7qで追いかけた。
家から駅までの距離は700mだ。
母親は、Aさんが駅に着く前に追いつくことができるか。
------------------------------------------------------
この問題は「追いつけない」が正解だ。
ところが、AIは、「追いつける」と回答した。
結論に至る道筋を細かく説明し、計算式も提示し、理路整然と解いているように回答が展開する。
でも、どこかでミスをして、結論が違ってしまっているのだ。
結論に至る過程をすべて示してくれているので、それを追っていくと、どこで間違えたかが分かる。
それで、そこのミスを指摘してみた。
すると、驚いたことに、「いいえ、間違っていません」と言って、間違っていない理由を展開する。
その間違っていない理由も矛盾だらけの解説になっている。
その矛盾を「おかしい」と指摘すると、「いいえ、おかしくありません」と反論してくる。
まるで、意固地になって自分のミスを認めたくない人が、必死に抵抗しているようだ。
どうやったら、AIに自分のミスを理解させることができるかと、いろいろ試みた。
だが、こちらが理詰めで追い込もうとすればするほど、AIは無茶苦茶な理屈で反論するようになった。
もうここまでくると、算数の内容はどこかに行ってしまって、表面上のやり取りを繰り返しているだけに見えた。
私はAIの説得を諦めた。
このやり取りで分かったことがある。
AIは物を考えていない。
ネット上によく似た情報パターンを見つけてきて、質問の文言に合わせてアレンジして提示しているだけだ。
先の算数の問題も、よくある旅人算のパターンで解析できるので、そのパターンを見つけてきて、数字を置き換えているだけなのだろう。
ただ、私の作成した問題が、よくある旅人算とは少し違う問いにしてあるので、答えが混乱してしまったのに違いない。
旅人算でよくある形式は、「母親は何分後にAさんに追いつくか」というものだ。
この形式で問うと、AIは正しく回答した。
しかし、「Aさんが駅に着く前に母親は追いつけるか」という問いにすると、とたんにレベルが上がってしまう。
旅人算に、もう1つ別の問題が複合されることになるからだ。
ところで、生成AIは同じ質問でも、繰り返すたびに回答が少しずつ変わる。
先の算数の問題も、1度だけ正しく計算し正解に至ることがあった。
たぶん、この時だけはよく似た解法パターンを見つけることができたのだろう。
それから、1度だけ、自らの誤りを認め謝罪してきたことがあった。
こちらが、式の立て方がおかしいことを指摘すると、すぐに間違いを理解し、修正し、正しい答えを出しなおしてきた。
この時だけは、AIに別人格が乗り移っているかのように錯覚した。
生成AIは急速な発展途上であるし、実に奥が深い。
これをどのように使うかは研究のし甲斐がある。
MicrosoftのBingAIを試してみた。
なるほど、従来の検索エンジンとは全く違う。
かなり利用の幅が広がる。
これは、利用者の力量が問われるツールになりそうだ。
単純な知識確認の回答はお手の物だが、少し複雑な文章も理解して的確に反応しているように見える。
一番の脅威は、外国語のニュースサイトを日本語で要約させる作業だ。
違和感のない日本語で要点だけをピックアップしてくれる。
これには人間をしのぐ能力がある。
そのほかの調べものについては、まあまあといったところ。
まじめな学生アルバイト程度の働きはしてくれる。
問題は、回答の正確性だ。
私の専門外の分野、例えば化学反応について質問すると、実に分かりやすく的確な回答をしているように見える。
ところが、私の専門分野について質問してみると、その化けの皮がはがれる。
ネット上で見つかる表面上の情報をかき集めてまとめただけだというのがよくわかる。
時には、完全に間違った回答をしてくることも。
それも、堂々と自信たっぷりに間違えるのだ。
信頼するには頼りないが、簡単な雑用ならこなせるといった感じか。
AIは算数の計算もできるとの噂を聞いて、試してみた。
以下の文章題を作り、投げかけた。
------------------------------------------------------
Aさんは家を出て時速4qで駅に向かって歩き始めた。
母親がAさんの忘れ物に気づいて、5分後に時速7qで追いかけた。
家から駅までの距離は700mだ。
母親は、Aさんが駅に着く前に追いつくことができるか。
------------------------------------------------------
この問題は「追いつけない」が正解だ。
ところが、AIは、「追いつける」と回答した。
結論に至る道筋を細かく説明し、計算式も提示し、理路整然と解いているように回答が展開する。
でも、どこかでミスをして、結論が違ってしまっているのだ。
結論に至る過程をすべて示してくれているので、それを追っていくと、どこで間違えたかが分かる。
それで、そこのミスを指摘してみた。
すると、驚いたことに、「いいえ、間違っていません」と言って、間違っていない理由を展開する。
その間違っていない理由も矛盾だらけの解説になっている。
その矛盾を「おかしい」と指摘すると、「いいえ、おかしくありません」と反論してくる。
まるで、意固地になって自分のミスを認めたくない人が、必死に抵抗しているようだ。
どうやったら、AIに自分のミスを理解させることができるかと、いろいろ試みた。
だが、こちらが理詰めで追い込もうとすればするほど、AIは無茶苦茶な理屈で反論するようになった。
もうここまでくると、算数の内容はどこかに行ってしまって、表面上のやり取りを繰り返しているだけに見えた。
私はAIの説得を諦めた。
このやり取りで分かったことがある。
AIは物を考えていない。
ネット上によく似た情報パターンを見つけてきて、質問の文言に合わせてアレンジして提示しているだけだ。
先の算数の問題も、よくある旅人算のパターンで解析できるので、そのパターンを見つけてきて、数字を置き換えているだけなのだろう。
ただ、私の作成した問題が、よくある旅人算とは少し違う問いにしてあるので、答えが混乱してしまったのに違いない。
旅人算でよくある形式は、「母親は何分後にAさんに追いつくか」というものだ。
この形式で問うと、AIは正しく回答した。
しかし、「Aさんが駅に着く前に母親は追いつけるか」という問いにすると、とたんにレベルが上がってしまう。
旅人算に、もう1つ別の問題が複合されることになるからだ。
ところで、生成AIは同じ質問でも、繰り返すたびに回答が少しずつ変わる。
先の算数の問題も、1度だけ正しく計算し正解に至ることがあった。
たぶん、この時だけはよく似た解法パターンを見つけることができたのだろう。
それから、1度だけ、自らの誤りを認め謝罪してきたことがあった。
こちらが、式の立て方がおかしいことを指摘すると、すぐに間違いを理解し、修正し、正しい答えを出しなおしてきた。
この時だけは、AIに別人格が乗り移っているかのように錯覚した。
生成AIは急速な発展途上であるし、実に奥が深い。
これをどのように使うかは研究のし甲斐がある。
2022年12月18日
菊澤研宗著『命令の不条理』:読後感
菊澤研宗著『命令の不条理〜逆らう部下が組織を伸ばす〜』を読了。
これは、2007年7月に光文社新書から『「命令違反」が組織を伸ばす』という書名で発刊されたが、今回、書名変更の上、中公文庫から新刊となった。
菊澤氏の著作は、過去に何冊も読んでいた。
彼の主張の特徴は、「組織の失敗は合理的な判断によってもたらされる」という点にある。
これは、私たちの常識と違う。
普通は、過去の失敗事例を見たときに、「リーダーが非合理的な判断をしたために失敗した」と解釈する。
そして、リーダーのここがダメだった、ここが間違いだった、と論評する。
ところが、菊澤氏は、「リーダーは合理的な判断をして失敗する」と解釈する。
結果から過去を振り返ると、どうしてこんな非合理的な判断をしたんだろうと思ってしまうことも、との当時の当事者の立場に立ってみると、これが最善の策だと解釈して実行していたことがわかる。
つまり、その時のリーダーが間抜けだったから失敗したのではなく、有能なリーダーであったのにもかかわらず失敗してしまったことが重要なのだ。
私たちは、結果論から過去を断罪しがちだ。
結果が分かってからなら何とでもいえる。
しかし、ここからは、「リーダーは完全合理的であるべし」という教訓しか得られない。
現実には、神のように完全合理的な判断ができる人間などこの世に存在しない。
結果論による論評は、ありもしない理想像を求めてしまっていることになる。
ここで、菊澤氏の「リーダーは合理的な判断をして失敗する」という主張には、考えさせられることが多い。
さて、問題はここからだ。
人は合理的な判断をして失敗してしまうとしたら、私たちは失敗しないためにはどうしたらいいのか。
どんなに優秀な人でも失敗は避けられないのなら、あきらめるしかないのか。
失敗を回避する方法が示されていない。
菊澤理論への批判はここにあった。
それに対する答えが本書『命令の不条理』だ。
本書のテーマは、「部下の命令違反が組織を守る」という主張だ。
またも逆説的な主張で、どういうことかと内容を読んでみたくなる。
例によって、太平洋戦争の代表的な戦闘場面を取り上げ、検証を試みている。
どうやら、命令違反にもいろんなタイプがあって、「よい命令違反」と「悪い命令違反」があるらしい。
トップが間違った命令を出したとしても、部下がやむを得ず命令違反をすることで、組織を守ることができる。
これが、よい命令違反。
ペリリュー島での中川州男、ミッドウェー海戦での山口多聞のケースがこれにあたる。
一方、トップが適切な命令を出しているのにもかかわらず、部下が勝手に命令違反をすることで、組織が崩壊する。
これが、悪い命令違反。
ノモンハン事件での辻政信、レイテ海戦での栗田健男のケースがこれにあたる。
それぞれを、理論的な裏付けをもって緻密に分析している。
どういう命令違反が「よい」になり、どういう命令違反が「悪い」になるのかが理論的に示されている。
たしかに、菊澤氏の理論は筋が通っているし、欠陥は見当たらない。
理論的にはその通りだと思う。
だが、残念ながら、すっきりした納得感がない。
自らの理論を過去事例に当てはめて、無理やり解釈しようとしているように見えるからだろうか。
組織は合理的に失敗するということへの解決策が本書で示されているはずだが、これを読んでも、結局、私たちはどうしたらいいのかわからないままだ。
これは、2007年7月に光文社新書から『「命令違反」が組織を伸ばす』という書名で発刊されたが、今回、書名変更の上、中公文庫から新刊となった。
菊澤氏の著作は、過去に何冊も読んでいた。
彼の主張の特徴は、「組織の失敗は合理的な判断によってもたらされる」という点にある。
これは、私たちの常識と違う。
普通は、過去の失敗事例を見たときに、「リーダーが非合理的な判断をしたために失敗した」と解釈する。
そして、リーダーのここがダメだった、ここが間違いだった、と論評する。
ところが、菊澤氏は、「リーダーは合理的な判断をして失敗する」と解釈する。
結果から過去を振り返ると、どうしてこんな非合理的な判断をしたんだろうと思ってしまうことも、との当時の当事者の立場に立ってみると、これが最善の策だと解釈して実行していたことがわかる。
つまり、その時のリーダーが間抜けだったから失敗したのではなく、有能なリーダーであったのにもかかわらず失敗してしまったことが重要なのだ。
私たちは、結果論から過去を断罪しがちだ。
結果が分かってからなら何とでもいえる。
しかし、ここからは、「リーダーは完全合理的であるべし」という教訓しか得られない。
現実には、神のように完全合理的な判断ができる人間などこの世に存在しない。
結果論による論評は、ありもしない理想像を求めてしまっていることになる。
ここで、菊澤氏の「リーダーは合理的な判断をして失敗する」という主張には、考えさせられることが多い。
さて、問題はここからだ。
人は合理的な判断をして失敗してしまうとしたら、私たちは失敗しないためにはどうしたらいいのか。
どんなに優秀な人でも失敗は避けられないのなら、あきらめるしかないのか。
失敗を回避する方法が示されていない。
菊澤理論への批判はここにあった。
それに対する答えが本書『命令の不条理』だ。
本書のテーマは、「部下の命令違反が組織を守る」という主張だ。
またも逆説的な主張で、どういうことかと内容を読んでみたくなる。
例によって、太平洋戦争の代表的な戦闘場面を取り上げ、検証を試みている。
どうやら、命令違反にもいろんなタイプがあって、「よい命令違反」と「悪い命令違反」があるらしい。
トップが間違った命令を出したとしても、部下がやむを得ず命令違反をすることで、組織を守ることができる。
これが、よい命令違反。
ペリリュー島での中川州男、ミッドウェー海戦での山口多聞のケースがこれにあたる。
一方、トップが適切な命令を出しているのにもかかわらず、部下が勝手に命令違反をすることで、組織が崩壊する。
これが、悪い命令違反。
ノモンハン事件での辻政信、レイテ海戦での栗田健男のケースがこれにあたる。
それぞれを、理論的な裏付けをもって緻密に分析している。
どういう命令違反が「よい」になり、どういう命令違反が「悪い」になるのかが理論的に示されている。
たしかに、菊澤氏の理論は筋が通っているし、欠陥は見当たらない。
理論的にはその通りだと思う。
だが、残念ながら、すっきりした納得感がない。
自らの理論を過去事例に当てはめて、無理やり解釈しようとしているように見えるからだろうか。
組織は合理的に失敗するということへの解決策が本書で示されているはずだが、これを読んでも、結局、私たちはどうしたらいいのかわからないままだ。
2022年12月16日
知られていない臨時情報の仕組み:南海トラフ巨大地震
北海道・十勝沖後発地震注意情報の運用が始まった。
想定震源域で中程度の地震が起きたときに、次の巨大地震の発生を注意するように呼び掛ける仕組みだ。
南海トラフ地震でも同じような仕組みがあって、既に運用が始まっていることは、あまり知られていない。
いや、運用が始まった時にマスコミでしきりに報道されたので、知らない人はいないはずだが、その後、話題にならないので、記憶が蒸発してしまっているのが実情だろう。
かつては「東海地震警戒宣言」が出される仕組みがあった。
東海地震は事前予知が可能であることを前提に、その時には総理大臣が警戒宣言を発出することになっていた。
ところが、地震予知は不可能であることが分かってきたので、この仕組みは撤廃され、代わりに「南海トラフ地震臨時情報」が出される仕組みとなった。
南海トラフ地震発生のリスクが高まったと判断されたときには、「警戒情報」か「注意情報」が発表される。
「警戒情報」は、「リスクがかなり高まっているの警戒せよ」というメッセージ、「注意情報」は、「リスクが高まっているので注意せよ」というメッセージ。
この情報が発表されたときには、各自治体はどのように対応するのかが求められる。
いま、各自治体でその時の対応方法が作られ、住民に伝えられている。
企業も同じように独自の対応が求められる。
警戒情報が出たときにどうするか、注意情報の時にはどうするか。
国や自治体は企業の面倒は見てくれない。
BCPでは、地震発生後の行動を考えるのが通例だったが、これからは、臨時情報の発表があったときからの行動手順を準備する必要がある。
想定震源域で中程度の地震が起きたときに、次の巨大地震の発生を注意するように呼び掛ける仕組みだ。
南海トラフ地震でも同じような仕組みがあって、既に運用が始まっていることは、あまり知られていない。
いや、運用が始まった時にマスコミでしきりに報道されたので、知らない人はいないはずだが、その後、話題にならないので、記憶が蒸発してしまっているのが実情だろう。
かつては「東海地震警戒宣言」が出される仕組みがあった。
東海地震は事前予知が可能であることを前提に、その時には総理大臣が警戒宣言を発出することになっていた。
ところが、地震予知は不可能であることが分かってきたので、この仕組みは撤廃され、代わりに「南海トラフ地震臨時情報」が出される仕組みとなった。
南海トラフ地震発生のリスクが高まったと判断されたときには、「警戒情報」か「注意情報」が発表される。
「警戒情報」は、「リスクがかなり高まっているの警戒せよ」というメッセージ、「注意情報」は、「リスクが高まっているので注意せよ」というメッセージ。
この情報が発表されたときには、各自治体はどのように対応するのかが求められる。
いま、各自治体でその時の対応方法が作られ、住民に伝えられている。
企業も同じように独自の対応が求められる。
警戒情報が出たときにどうするか、注意情報の時にはどうするか。
国や自治体は企業の面倒は見てくれない。
BCPでは、地震発生後の行動を考えるのが通例だったが、これからは、臨時情報の発表があったときからの行動手順を準備する必要がある。
後発地震注意情報の運用開始:北海道・三陸沖
「北海道・三陸沖後発地震注意情報」の運用が本日正午から始まる。
北海道から岩手県にかけての沖合にある「千島海溝」と「日本海溝」でマグニチュード7クラスの地震が起きた場合に、国がその後の巨大地震の発生に注意を呼びかける仕組みだ。
情報が発表された場合、北海道から関東にかけての7道県182の市町村では、1週間程度は日常の生活を維持しつつ、揺れを感じたら直ちに避難できるよう備えておくことなどが求められる。
千島海溝と日本海溝は、巨大地震の発生リスクが高まっている。
日本の巨大地震というと、まず南海トラフと首都直下が取り上げられるが、千島海溝の地震リスクが見過ごされがちだ。
それで、今回の注意情報の運用開始となった。
これはどういう仕組みかというと、千島海溝と日本海溝の震源エリアのどこかでマグニチュード7程度の地震が起きたときに、続いて規模の大きい地震発生の可能性を知らせ、注意喚起するものだ。
これは、過去の経験則から導き出された。
東日本大震災は、2011年3月11日に起きたが、実はその2日前に、同じ場所でマグニチュード7程度の地震が起きていたのだ。
後で振り返ると、これが巨大地震の前震だったのだということが分かるが、この時にはわからない。
津波も起きず、揺れによる直接被害もほとんどなく終わってしまったために、次の巨大地震を警戒する人もなく、注意喚起の情報も発信されなかった。
この時、次の巨大地震の可能性を少しでも意識した行動がとれていたら、被害を少しでも軽減できていたのではないかとの反省がある。
このように、巨大地震の前に中程度の地震が起きるという現象は、過去に何度も記録されている。
それで、想定震源域で中程度の地震が起きたときには、次の巨大地震発生の前震の可能性があることを国民に知らせようということになったわけだ。
かつては、大きな地震が起きたときは、「今後1週間程度は余震の可能性があります」との呼びかけが行われていた。
余震は、本震よりも一回り小さい規模の地震だ。
この呼びかけが、「もうこれより大きい地震は起きない」という奇妙な安心感を与えてしまい、国民に誤った判断をさせることになる。
2016年の熊本地震では、4月14日の地震発生後、余震への警戒が呼びかけられたが、2日後に最大震度7の地震が発生した。
2回目の地震はとても余震と言えるものではなく、同程度の地震が2回連続したものだった。
それで、最近は地震が発生した時は、「今後1週間は、同程度かそれ以上の地震が起きる可能性があります」という言い方に変更されるようになった。
後発地震注意情報は、当たる可能性は低い。
中程度の地震が必ず次の巨大地震の引き金になるとは限らないからだ。
むしろ、次の巨大地震につながらない可能性の方が圧倒的に高い。
確実性の低い情報を流すことで、不必要に国民に不安を与えることになるのではという意見もある。
だが、巨大地震のリスクが高まっているのが分かっていながら、そのことを国民に隠しておくということがあっていいのか、という意見が強い。
それで、リスクが高まっていることをありのままに国民に伝え、それをどう判断しどう行動するかは、国民自身にゆだねようということになったわけだ。
北海道から岩手県にかけての沖合にある「千島海溝」と「日本海溝」でマグニチュード7クラスの地震が起きた場合に、国がその後の巨大地震の発生に注意を呼びかける仕組みだ。
情報が発表された場合、北海道から関東にかけての7道県182の市町村では、1週間程度は日常の生活を維持しつつ、揺れを感じたら直ちに避難できるよう備えておくことなどが求められる。
千島海溝と日本海溝は、巨大地震の発生リスクが高まっている。
日本の巨大地震というと、まず南海トラフと首都直下が取り上げられるが、千島海溝の地震リスクが見過ごされがちだ。
それで、今回の注意情報の運用開始となった。
これはどういう仕組みかというと、千島海溝と日本海溝の震源エリアのどこかでマグニチュード7程度の地震が起きたときに、続いて規模の大きい地震発生の可能性を知らせ、注意喚起するものだ。
これは、過去の経験則から導き出された。
東日本大震災は、2011年3月11日に起きたが、実はその2日前に、同じ場所でマグニチュード7程度の地震が起きていたのだ。
後で振り返ると、これが巨大地震の前震だったのだということが分かるが、この時にはわからない。
津波も起きず、揺れによる直接被害もほとんどなく終わってしまったために、次の巨大地震を警戒する人もなく、注意喚起の情報も発信されなかった。
この時、次の巨大地震の可能性を少しでも意識した行動がとれていたら、被害を少しでも軽減できていたのではないかとの反省がある。
このように、巨大地震の前に中程度の地震が起きるという現象は、過去に何度も記録されている。
それで、想定震源域で中程度の地震が起きたときには、次の巨大地震発生の前震の可能性があることを国民に知らせようということになったわけだ。
かつては、大きな地震が起きたときは、「今後1週間程度は余震の可能性があります」との呼びかけが行われていた。
余震は、本震よりも一回り小さい規模の地震だ。
この呼びかけが、「もうこれより大きい地震は起きない」という奇妙な安心感を与えてしまい、国民に誤った判断をさせることになる。
2016年の熊本地震では、4月14日の地震発生後、余震への警戒が呼びかけられたが、2日後に最大震度7の地震が発生した。
2回目の地震はとても余震と言えるものではなく、同程度の地震が2回連続したものだった。
それで、最近は地震が発生した時は、「今後1週間は、同程度かそれ以上の地震が起きる可能性があります」という言い方に変更されるようになった。
後発地震注意情報は、当たる可能性は低い。
中程度の地震が必ず次の巨大地震の引き金になるとは限らないからだ。
むしろ、次の巨大地震につながらない可能性の方が圧倒的に高い。
確実性の低い情報を流すことで、不必要に国民に不安を与えることになるのではという意見もある。
だが、巨大地震のリスクが高まっているのが分かっていながら、そのことを国民に隠しておくということがあっていいのか、という意見が強い。
それで、リスクが高まっていることをありのままに国民に伝え、それをどう判断しどう行動するかは、国民自身にゆだねようということになったわけだ。
2022年11月21日
凡庸なリーダーは事態を悪化させる
寺田総務大臣の更迭。
総理の決断の遅さが批判されている。
山際氏の場合も、寺田氏の場合も、任命直後から問題が指摘されていた。
マスコミや野党がそこに食らいついて話さないのは目に見えていながら、対応を先延ばししたために、事態を悪化させ続けた。
いま、新型コロナの第8波が始まろうとしている。
いつまで、こんなことを繰り返しているのだろうか。
以前から、第2類相当の扱いを、第5類相当に切り替えよ、という声が国民の間から立ち上がっていた。
第7波の時、総理は「感染拡大の最中に基準を切り替えると現場が混乱する」と言って、決断を先送りにした。
いま、第7波が収まり、第8波を迎えようとしている。
基準切り替えをするとしたら、ラストチャンスだが、決断は先送りにしたままだ。
閣僚人事にてんてこ舞いで、国政の重大事案にじっくり向き合う余裕を失っているようだ。
第8波では第7波以上の感染状況を迎える。
第2類相当のままでは、再び医療現場の逼迫が起きるのは目に見えている。
その時、また、国民に外出自粛、3密回避を呼び掛けるのか。
本来は、国民の健康を守るために医療体制があるはずなのに、いまでは医療体制を守るために国民が犠牲を強いられるという倒錯した状況が続いている。
「聞く力」をアピールしていた総理。
本当に聞く力しか持っていなかったことが分かってきて、失望感が強い。
危機管理においては、「誤断は不断に勝る」が教訓だ。
ぐずぐずしていて決断できないようなら、間違っても何らかの決断をした方がいい。
早いうちの決断なら、間違っていたとしても取り戻す時間の余裕がある。
ところが、決断できない者は、ひたすら時間ばかりを浪費し事態を悪化させ続ける。
凡庸なリーダーは役に立たないどころではない。
事態を悪化させてしまうという意味で、弊害が大きい。
総理の決断の遅さが批判されている。
山際氏の場合も、寺田氏の場合も、任命直後から問題が指摘されていた。
マスコミや野党がそこに食らいついて話さないのは目に見えていながら、対応を先延ばししたために、事態を悪化させ続けた。
いま、新型コロナの第8波が始まろうとしている。
いつまで、こんなことを繰り返しているのだろうか。
以前から、第2類相当の扱いを、第5類相当に切り替えよ、という声が国民の間から立ち上がっていた。
第7波の時、総理は「感染拡大の最中に基準を切り替えると現場が混乱する」と言って、決断を先送りにした。
いま、第7波が収まり、第8波を迎えようとしている。
基準切り替えをするとしたら、ラストチャンスだが、決断は先送りにしたままだ。
閣僚人事にてんてこ舞いで、国政の重大事案にじっくり向き合う余裕を失っているようだ。
第8波では第7波以上の感染状況を迎える。
第2類相当のままでは、再び医療現場の逼迫が起きるのは目に見えている。
その時、また、国民に外出自粛、3密回避を呼び掛けるのか。
本来は、国民の健康を守るために医療体制があるはずなのに、いまでは医療体制を守るために国民が犠牲を強いられるという倒錯した状況が続いている。
「聞く力」をアピールしていた総理。
本当に聞く力しか持っていなかったことが分かってきて、失望感が強い。
危機管理においては、「誤断は不断に勝る」が教訓だ。
ぐずぐずしていて決断できないようなら、間違っても何らかの決断をした方がいい。
早いうちの決断なら、間違っていたとしても取り戻す時間の余裕がある。
ところが、決断できない者は、ひたすら時間ばかりを浪費し事態を悪化させ続ける。
凡庸なリーダーは役に立たないどころではない。
事態を悪化させてしまうという意味で、弊害が大きい。
2022年11月13日
政治家のスピーチ下手:葉梨大臣の失言
葉梨氏は9日、都内の会合で「だいたい法相は朝、死刑のはんこを押す。昼のニュースのトップになるのはそういう時だけという地味な役職だ」などと述べた。
これが死刑を軽視する重大な失言として取り上げられた。
野党やマスコミの批判が沸き起こる中、本人は釈明に追われたが、自民党内からも、かばいきれないとの声が上がり、11日に更迭となった。
葉梨氏は、頭脳明晰で堅実なイメージがあり、法務大臣就任の報道を知った時、期待できそうだと思った。
だが、こんなつまらない失言で失脚するとは、残念だ。
たぶん、葉梨氏としては、死刑を軽んじるつもりも、法務大臣という職責を軽視するつもりもなかっただろう。
初入閣の法務大臣として周りからもてはやされる中、「いや、それほど大したことではないんですよ」と謙遜のつもりで、「法務大臣なんてこんなもの」と自虐的に冗談を言ったのに違いない。
ここで、逆に「法務大臣は重責なんだ。大変なんだ」なんてことを強調するようなスピーチをしたら、むしろ、場をしらけさせただろう。
葉梨氏は、問題となった会合でたまたま口が滑ったというわけではなく、いろんな場で、同じようなスピーチをしていたようだ。
このジョークでそれなりに場が和むのを見て、同じ調子て繰り返していたのだろう。
更に、「法務大臣はカネがもうからない。票が集まらない」という愚痴までも披露していたらしい。
調子に乗って、自虐ジョークを重ねてしまったようだ。
軽口は、その場に居合わせてスピーチを聴いた人はそれほど違和感がないが、それを、現場の雰囲気を実感しない第三者が文字として読むと強烈な違和感を覚えることがある。
今回は、このケースだ。
葉梨氏は、「死刑を軽視しているような印象を与えてしまったのは本意ではない」として、釈明を繰り返した。
ぶら下がり取材では、その時のスピーチ全文を読み上げ、どのような文脈で語ったものかということを知らせようとした。
片言隻語で上げ足を取ろうとするマスコミへの不満がにじみ出ていた。
だが、4分間の全文朗読を聴いている記者はなく、それを報道するマスコミもなかった。
現場の雰囲気を知らない者が、全文の読み上げを聴いても、それを文字として読んでも、違和感に変わりはない。
むしろ、「発言の一部を切り取られたために誤解されているのでは」と同情していた保守派にまで見限られてしまった。
葉梨氏の抗弁は、事態を悪化させただけだった。
葉梨氏に落ち度があるとすれば、それは、致命的なスピーチ下手にある。
政治家は言葉が商売道具。
その言葉を適切に使えなくては、政治家は務まらない。
言葉で我が意を伝え、言葉で聴き手の心をつかみ、言葉で相手の行動を促す。
話術にはさまざまなテクニックがあるが、笑いを取るというのはその1つ。
だが、この笑いを取るという技術は、思いのほか難しい。
話術の中では高等戦術に入る。
使い方を間違えると、受けなくてドッチラケになるだけでは済まない。
聴き手を不快にさせ、特定の人の怒りを買い、別の問題を引き起こしかねない。
誰も不快にさせず、爽やかな印象だけを残す笑い・・・これを使いこなすには相当のトレーニングがいる。
欧米の政治家のスピーチを聴いていると、笑いをとることが必須のように見える。
中にはライバルを当てこするだけのような低レベルの笑いもあるが、品のあるウィットに富んだ笑いもある。
爽やかな笑いは聴く方も気持ちがいい。
葉梨氏には、聴き手の心をつかむスピーチ能力に限界があった。
それで、安易に程度の低い自虐ネタで笑いを取ろうとしてしまったのだろう。
今回の件で、葉梨氏の政治家としての限界まで露呈してしまった。
再登板は無理だろう。
これが死刑を軽視する重大な失言として取り上げられた。
野党やマスコミの批判が沸き起こる中、本人は釈明に追われたが、自民党内からも、かばいきれないとの声が上がり、11日に更迭となった。
葉梨氏は、頭脳明晰で堅実なイメージがあり、法務大臣就任の報道を知った時、期待できそうだと思った。
だが、こんなつまらない失言で失脚するとは、残念だ。
たぶん、葉梨氏としては、死刑を軽んじるつもりも、法務大臣という職責を軽視するつもりもなかっただろう。
初入閣の法務大臣として周りからもてはやされる中、「いや、それほど大したことではないんですよ」と謙遜のつもりで、「法務大臣なんてこんなもの」と自虐的に冗談を言ったのに違いない。
ここで、逆に「法務大臣は重責なんだ。大変なんだ」なんてことを強調するようなスピーチをしたら、むしろ、場をしらけさせただろう。
葉梨氏は、問題となった会合でたまたま口が滑ったというわけではなく、いろんな場で、同じようなスピーチをしていたようだ。
このジョークでそれなりに場が和むのを見て、同じ調子て繰り返していたのだろう。
更に、「法務大臣はカネがもうからない。票が集まらない」という愚痴までも披露していたらしい。
調子に乗って、自虐ジョークを重ねてしまったようだ。
軽口は、その場に居合わせてスピーチを聴いた人はそれほど違和感がないが、それを、現場の雰囲気を実感しない第三者が文字として読むと強烈な違和感を覚えることがある。
今回は、このケースだ。
葉梨氏は、「死刑を軽視しているような印象を与えてしまったのは本意ではない」として、釈明を繰り返した。
ぶら下がり取材では、その時のスピーチ全文を読み上げ、どのような文脈で語ったものかということを知らせようとした。
片言隻語で上げ足を取ろうとするマスコミへの不満がにじみ出ていた。
だが、4分間の全文朗読を聴いている記者はなく、それを報道するマスコミもなかった。
現場の雰囲気を知らない者が、全文の読み上げを聴いても、それを文字として読んでも、違和感に変わりはない。
むしろ、「発言の一部を切り取られたために誤解されているのでは」と同情していた保守派にまで見限られてしまった。
葉梨氏の抗弁は、事態を悪化させただけだった。
葉梨氏に落ち度があるとすれば、それは、致命的なスピーチ下手にある。
政治家は言葉が商売道具。
その言葉を適切に使えなくては、政治家は務まらない。
言葉で我が意を伝え、言葉で聴き手の心をつかみ、言葉で相手の行動を促す。
話術にはさまざまなテクニックがあるが、笑いを取るというのはその1つ。
だが、この笑いを取るという技術は、思いのほか難しい。
話術の中では高等戦術に入る。
使い方を間違えると、受けなくてドッチラケになるだけでは済まない。
聴き手を不快にさせ、特定の人の怒りを買い、別の問題を引き起こしかねない。
誰も不快にさせず、爽やかな印象だけを残す笑い・・・これを使いこなすには相当のトレーニングがいる。
欧米の政治家のスピーチを聴いていると、笑いをとることが必須のように見える。
中にはライバルを当てこするだけのような低レベルの笑いもあるが、品のあるウィットに富んだ笑いもある。
爽やかな笑いは聴く方も気持ちがいい。
葉梨氏には、聴き手の心をつかむスピーチ能力に限界があった。
それで、安易に程度の低い自虐ネタで笑いを取ろうとしてしまったのだろう。
今回の件で、葉梨氏の政治家としての限界まで露呈してしまった。
再登板は無理だろう。