2017年09月24日

麻生氏の武装難民射殺発言:曲解による反発がひどい

 また、麻生太郎副総理の発言が注目されている。
 23日の宇都宮市での講演。
 北朝鮮有事に関して武装難民が上陸してくる可能性に触れ、「警察で対応できるか。自衛隊、防衛出動か。じゃあ射殺か。真剣に考えた方がいい」と発言した。
 この発言に対して、曲解に基づく過剰反応が起きている。

 真っ先に飛びついたのは朝日新聞。
 ウェブ上のニュースサイトでは『麻生副総理「警察か防衛出動か射殺か」 北朝鮮難民対策』というタイトルを付け速報した。
 「北朝鮮難民」という言葉を使って、まるで麻生氏が「北朝鮮からの難民を射殺せよ」と言っているかのような見出しになっている。
 その後、読者から問い合わせや抗議の声が殺到したらしい。
 数時間後には、「武装難民対策」という正しい言葉に修正された。
 
 この朝日新聞の速報は、ネット上で拡散した。
 まもなく、「難民」「射殺」という単語に脊髄反射したような言論がネット上で散見されるようになった。
 いずれも、「麻生氏が難民を射殺せよと発言した」という前提の批判だ。
 だが、これらの批判は、曲解であることは明らかだ。
 麻生氏は、「一般の難民を射殺せよ」とは言っていない。
 もっと厳密に言えば、「武装難民を射殺せよ」とも言っていない。
 「北朝鮮の体制が崩壊した時、難民が押し寄せてくる。その中に、難民を偽装した武装集団が紛れ込んでいたらどうするのか」という問題提起をしているに過ぎない。
 これは、文脈をよく確認すれば、すぐに分かること。
 この問題提起は、現実に起こり得ることであり、安全保障上、極めて対応が難しくかつ重要だ。

 麻生氏の発言に反発しているサヨクメディアやサヨク言論人は、現実を直視せず、単に観念的な言葉に反応しているだけであるのは明らか。
 彼らに共通するのは、勢いよく批判はするが、ならば実際にどうすべきなのかについては何も考えがないこと。
 麻生氏の「武装集団が難民に偽装して上陸してきたらどうするのか」という問題提起に何も答えることができていない。
 今回の麻生氏の発言に驚くとしたら、こんな大事な話が、まだ何も話し合われていなかったことに対してではないのか。
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2017年09月07日

優性を顕性に:専門用語の言い換え

 朝日新聞の報道による。
 「優性遺伝」「劣性遺伝」という言葉が使われなくなりそうだ。
 誤解や偏見につながりかねなかったり、分かりにくかったりする用語を、日本遺伝学会が改訂。
 用語集としてまとめ、今月中旬、一般向けに発行する。

 遺伝学の訳語として使われてきた「優性」「劣性」という言葉。
「優性」は「顕性」「劣性」は「潜性」と言い換えることになる。
 もともと「優性」「劣性」は、遺伝子の特徴の現れやすさを示すにすぎないが、優れている、劣っているという語感があり、誤解されやすいためだ。
 
 他にも、「バリエーション」の訳語の一つだった「変異」は「多様性」に変更される。
 遺伝情報の多様性が一人一人違う特徴となるという基本的な考え方が伝わるようにするのが目的。
 色の見え方は人によって多様だという認識から「色覚異常」や「色盲」は「色覚多様性」となるらしい。

 中学校で習う遺伝法則。
 優性遺伝、劣性遺伝という言葉は、その概念をイメージしやすく分かりやすい専門用語だった。
 だが、分かりやすいというのは、一方では、誤解しやすいという側面があり、その弊害を除去しようというのが今回の提案なのだろう。
 「けんせい」「せんせい」では、耳で聞いただけでは文字を想起しにくく、非常に分かりにくい。
 この分かりにくいというのがポイントだ。
 ストレートに分からないようにイメージをぼかすことで、感覚的に誤解してしまう恐れを排除している。
 
 一般に使われるようになった専門用語が、後に別の表現に変更される例は多い。
 「精神分裂病」は、いまでは「統合失調症」と言い換えられた。
「禁治産者」は、「成年被後見人」と言い換えられた。
 「色盲」という言葉は、「色覚異常」と言い換えられてきたが、それでも誤解の可能性ありということで、今回、「色覚多様性」への変更が提案されている。
 言葉にまとわりついている価値判断を伴うイメージを、極力そぎ落とそうという工夫の跡が見える。
 
 ビジネス用語では「差別化」という言葉がある。
 他社との違いをはっきりさせ、競争優位を獲得しようとするときに使われる言葉だ。
 だが、この言葉も消滅の危機に瀕したことがあった。
 「差別」という言葉に敏感に反応してしまう人がいるのだ。
 それで、一時、「差別化」を「差異化」に言い換えようという動きが見られた。
 一部の経済紙は、この言い換えに積極的だった。
 ところが、この言い換えは定着することがなかった。

 「差別化」という言葉は、定義のはっきりした学術用語ではないこと。
 「差別化」を使う場面で、人種差別のようないわゆる「差別」を意識させる使い方をする人が存在しないこと。
 「差異化」という言葉を使い始めたことで、「差別化」とは別の概念を持つビジネス用語が登場したと誤解する人が増えたこと。
 コンサルの中には、「差異化」と「差別化」の意味の違いを無理に定義づけして、教えを垂れようとする人まで出てくる始末だった。
 これらの理由で、「差異化」への変更はうまくいかなかった。
 「差別化」への攻撃は、単なる言葉狩りということが誰の目にも明らかだったということだろう。




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2017年08月26日

映画「関ケ原」鑑賞雑感

 映画「関ケ原」を鑑賞。
 その雑感。ネタバレを含む。
 期待が大きすぎたせいか、がっかり感が強い。
 司馬遼太郎の「関ケ原」を映画化するという話を知った時、いやな予感がしていた。
 原作は上中下に分かれた長編歴史小説。
 原作の世界観をそのまま2時間余りの映画にまとめるのは不可能だ。
 当然、端折った内容にならざるを得ない。
 細かいエピソードは省略されるだろうが、主要な場面はじっくり映像化されるものと思っていた。
 だが、有名な場面は、この映画ではことごとく端折られていた。
 三成と大谷の友情、直江状、内府違いの条々、小山評定、伏見城の戦い、上田城の攻防、宰相殿の空弁当、島津の敵中突破、などなど。
 個別エピソードが省略されていただけではない。
 主要テーマの、なぜ家康と三成が戦うことになったのか、というところから意味が分からない。
 いつの間にか敵対し、全国の武将が2軍に分かれて衝突することになってしまっている。
 全国の武将が、東西に分かれていく過程にダイナミックなストーリーが展開するのだが、それらはまったく描かれない。
 忠臣蔵の映画で、上野介の嫌がらせや松の廊下の場面が省略されているような感じだ。
 
 同じく司馬遼太郎の「関ケ原」を原作にしたTBSのドラマはいまでも評価が高い。
 こちらは、原作に忠実に映像化している。
 これを意識しすぎたために、まったく違う作品を作ろうとして、このような映画になったような気がする。
 TBSドラマでじっくり描かれた場面は省略し、ドラマで省略された場面を重点的に取り上げたのではないか。
 それで、関ケ原の名場面が少しも出てこない映画作品となったのかもしれない。
  
 戦闘場面はいままでにない迫力があった。
 関ケ原らしい地形を感じさせる場所での撮影は、リアリティがあった。
 特に、狭い小道に大群が流れ込んで、過密状態の中で両軍がぶつかり合う姿は、いままで見たことがない光景だった。
 関ケ原での戦いは、まさにこの通りだったのだろうと思わせる。
 
 だが、戦闘開始してからの戦況の揺れ動きがまったく描かれない。
 ひたすらいろんな部隊がぶつかり合っているだけで、どことどこが戦っているのかまったく分からない。
 どちら側が優勢で、どちらが追い込まれているのかも分からない。
 本当なら、この戦闘シーンが映画のクライマックスで、手に汗握る場面にならなければならないのに、その緊迫感がないのだ。
 
 ロケ地はいろんなところで行なわれたようだ。
 歴史的建造物を舞台に撮影が行われていて、映像に独特の風格を与えている。
 伏見城などCGによる映像も見どころだ。
 
 秀吉の名古屋弁もすばらしい。
 百姓出身の秀吉らしい言葉遣いと話し方。
 今まで見た映像作品の中で、もっとも秀吉らしいと感じた。

 家康は、いままでの映像作品の中では、もっともイメージから遠い。
 策略家の狸おやじのイメージがない。
 別所は家康というより、武田信玄か前田利家のイメージだ。
 別所が演じた過去の作品イメージがよみがえってくる場面があり、興ざめ。
 家康の肥満体を表現するために、ふんどし姿にして無理やり太鼓腹を見せていたのが違和感。
 
 岡田の三成もイメージからは遠い。
 岡田の演技の幅が狭いせいか、官兵衛や永遠のゼロのイメージがよみがえってしまう。
 
 小早川の裏切りの場面は、原作を改変している。
 本人は三成に味方するつもりだったのに、部下の突き上げで心ならずも家康側に寝返ることになってしまったという設定になっている。
 家康による問鉄砲の場面もない。
 最近の歴史研究の成果を反映させているのか。
 
 TBS「関ケ原」、NHK「葵徳川三代」と比較しながら、楽しむには興味深い作品か。

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2017年08月09日

新人研修で精神疾患:ゼリア新薬

 読売新聞の報道による。
 ゼリア新薬工業の新入社員だった男性が、新人研修から帰宅途中で自殺。
 社員研修で人格を否定されるなどして精神疾患を発症したためだとして遺族が同社と研修会社を訴えた。
 1億5千万円の損害賠償を求めている。
 ゼリア新薬から研修を受託していたのは、「ビジネスグランドワークス」。
 
 男性は2013年4月10日〜12日に研修を受けた。
 この研修は、「意識行動変革研修」と呼ばれていたという。
 その中で、吃音を指摘されたり、過去のいじめを告白するよう強要されたりしたらしい。
 その後も、社内の研修が長期間に及び、5月18日、異常行動が見られたとして帰宅を命じられ、その帰宅途中で自殺。
 中央労基署は、研修による心理的負担で精神疾患を発症したと認定し、労災認定している。

 このニュースで驚いたのは、いまだにこの手の乱暴な社員研修を行なっているところがあることだ。
 一時は、「地獄の特訓」と銘打って、過酷な研修を請け負う業者が目立っていたこともある。
 また、そのような過酷な研修を社員の通過儀礼と位置づけ、「それを無事に乗り越えてこそ、我が社の一員」と堂々と表明している会社もあった。
 この手の研修は、「敬語の使い方」とか「電話の受け答え」など社会人としての基礎知識を習得するのが目的ではない。
 学生気分を払拭し、社会人としての厳しい心構えを身に着けさせることに重点が置かれている。
 だが、そのやり方は乱暴なもので、勝手な手法で行なわれているのが実態。
 心構えを叩き直すところに主眼があるので、場合によっては、人格にまで影響を及ぼすような研修になる。
 それも、短期間のうちに成果を出そうとするために、かなり危なっかしい強引なやり方になる。
 問題となった研修会社がどんなやり方をしていたのかは不明。

 ただ、よくある研修パターンは決まっている。
 まずは、いままでの自分を捨てさせる。
 自分を捨てるということは、自信も誇りも捨てさせるということだ。
 斜に構えて冷めた目で研修に臨んでいる参加者は、集中的にマークされる。
 はじめは反抗的な態度を取っていた者も、観念し、従順になる。
 研修会場では、完全に講師という独裁者と受講者という奴隷の関係が築かれる。
 そして、過去の自分のダメなところをみんなの前で徹底的に吐き出させる。
 自己反省が足りない場合は、執拗に責めたてられる。
 取り繕おうとしたり、弁解しようとすると、容赦ない暴言が飛んでくる。
 ここで、たいていの人は、自尊心がボロボロになる。
 そして、過去の自分が崩壊し、そのまっさらな地面に新しい人格を立ち上げていく。
 次に、どのような人間になるのかをみんなの前で誓わされる。
 中途半端な目標を掲げると、吊し上げを食らう。
 何度もダメ出しを食らいながら、涙ながらに必死で訴え、ようやく認められる。
 中には、研修の最後に達成感から感動の涙にむせぶ人もいるそうだ。
 入社式の時にぼーっとしていた新入社員が、研修翌日に出社した時、「おはようございます!」のあいさつから見違えるような変化を見せるのだという。

 ただ、この手の乱暴な研修は、参加者の人格にまで手を出すために、非常に危なっかしい。
 研修途中で脱落者が出るのはよくある話。
 脱落者と言えば、参加者に根性がなくて投げ出したという印象だが、中には、挙動不審に陥ったり、精神錯乱を起こして研修を続けられなくなったりという事例も含む。
 心理カウンセラーや、精神科医との連携など、万が一の時のケア体制ができていない。
 研修会社の勝手な理論でプログラムが組まれ、実施されている。
 ハードな研修が、精神や人格に及ぼす影響など慎重に検証されているとは思えない。
 研修講師の勝手な経験則で実施しているだけだろう。
 ちょうど、資格も知識もない人が、スポーツのトレーニング指導をしているようなものだ。
 勝手な経験則でハードなトレーニングをすると、運動理論や生命科学に反するようなことが平気で行なわれ、取り返しのつかない障害を負わせてしまうことがある。
 意識改革系の研修も同じだ。
 いつ事故が起きても不思議ではないし、問題が起きたときに適切な対処ができない危険も大きい。

 ところで、このようなハードな意識改革研修は、なぜいまだに行われているのか。
 それは、それなりに効果があるからだ。
 受講者の意識と行動に明らかな変化が起きる。
 いままで、ボソボソとしか話さなかった人が、突然、ハキハキと話すようになる。
 行動の鈍かった人が、てきぱき動くようになる。
 はたから見てもこの変化は劇的だが、本人自身が、生まれ変わったかのような感覚を実感する。
 これが、このハード研修の醍醐味だろう。
 ただし、短時間に変化した意識は、短時間で元に戻る。
 こうして、次第に普通の一般社員の中に溶け込んでいく。
 研修に実質的な意味があるのかどうかは、よくわからない。
 こんな研修を受けなかったとしても、職場で経験を積むうちに自然と社会人の心構えができていくものだ。

 つらい研修経験は、いつの間にか、過去の苦い思い出になる。
 この苦い思い出がただの笑い話で終わればいいが、いつまでも心の傷として残ったり、精神疾患にまで至ってしまうことがある。
 このリスクに気づくべき時だろう。



 
 
 

 
 
 
 
 
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2017年08月07日

モリカケ問題は一旦棚上げにしよう

 この半年間、国会はモリカケ問題一色だった印象が強い。
 モリカケ一色だったのは国会だけではない。
 マスコミ報道もモリカケ一色だった。
 その結果、国民の関心までモリカケ一色になってしまった。
 マスコミの報道が過熱するにつれて内閣支持率は急落。
 内閣改造をきっかけに支持率はやや持ち直した。
 これは、マスコミ報道がモリカケから離れて閣僚人事に集中したからだ。
 マスコミの報道内容によって内閣支持率が上下するのがはっきりわかる現象だ。

 不自然なのは、マスコミが報道し、その同じマスコミが世論調査をしていること。
 世論はマスコミ報道に影響されると考えると、これはおかしい。
 マスコミが自分で仕掛けた結果を自分で確認しているようなものだからだ。
 中には、自社の報道姿勢に沿う結果を出したいために、誘導尋問のような質問設定をしている世論調査もある。
 これでは、世論調査というより、客観的な調査を装って、さらに世論誘導をしているようなものだ。
 ここにきて、各社の世論調査の内閣支持率の数字がばらつき始めている。
 内閣改造後の内閣支持率は、30%台でほとんど横ばいのところから10ポイントも上昇して50%近くまで達したところまで、さまざま。
 これなど、客観的な世論調査が行われたというより、各社の思わくで数字はいかようにも作れることの現れだ。
 世論調査は、マスコミから独立した機関が行うべきだろう。
 
 国会論議やマスコミ報道がモリカケ一色になってしまった時間と労力のロスは大きい。
 このロスは、国会やマスコミのロスではない。
 国民のロスだ。
 国民が関心を向ける容量は限られている。
 その容量すべてがモリカケで埋められてしまった感がある。
 このおかげで、アベノミクスの論議はどこかに行ってしまった。
 北のミサイルの脅威は現実のものとして迫っているが、国民の関心は薄れてしまっている。

 閉会中審査まで行なって野党側が追及しても、決定的な結果は何も出てこない。
 野党は既に追及する材料を失っているが、すっきりした結果が出ないことを「さらに疑惑は深まった」と言い変えている。
 むしろ、すっきりと決着がついてしまわないように、わざと細かいややこしい質問をして混乱を引き延ばしているように見える。
 マスコミ報道も、客観的な報道とは程遠い。
 国会への参考人として、前川氏と一緒に、元愛媛県知事の加戸氏も招かれて質問に答えていたが、マスコミ報道では、加戸氏については存在しなかったかのような扱いだ。
 加戸氏の発言を聞くと、安倍総理が不当に介入して加計学園に便宜を働いたという印象は、いっぺんに吹き飛んでしまう。
 前川氏と加戸氏の発言を同等に扱うと、国民の印象は一気に変わってしまう恐れがあるので、わざと隠しているように見える。
 マスコミにも言い分がある。
 前川氏と加戸氏の発言は同等に扱うべき性質のものではない。
 むしろ、加戸氏の発言を大きくとりあげることで、問題の本質が見えづらくなる恐れがある。
 だから、両者の扱いが違うのだ、と。
 だが、これは国民をあまりにも馬鹿にした姿勢だ。
 何が問題の本質で、何が重要かは、国民が判断すべきもので、マスコミが勝手に判断して、その結果だけを国民に伝えようとするのは、驕りというものだ。
 マスコミの使命は政権のチェック機能にあるという前に、まずは事実をありのままに国民に伝えることにあるべきだ。

 一旦、モリカケ問題は棚上げにしよう。
 そして、国会では政策論議をしてもらいたい。
 
 
 
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2017年08月03日

偽ニュース拡散実験:不思議な研究

 読売新聞の記事による。
 ドイツの研究者がフェイスブックに架空の情報を載せて、フェイクニュースが拡散する実験調査をしたという。
 その研究者は、シュツットガルトのホーエンハイム大学に所属。
 行なった実験とは次のようなもの。
 報道機関を装った4つのページを開設。
 「バート・オイレンでは難民申請者が町の予算で性的サービスを受けられる」という偽ニュースを流した。
 偽ニュースは、公開から4日で約1万1000人が閲覧。
 閲覧者が自分のページに取り込みシェアした回数は150回を超えた。
 偽ニュースのコメント欄には様々な書き込みが行われた。
 ニュースを信じ込み、難民に対する反感を募らせるもの。
 「バート・オイレン」という地名が存在しないなど、偽ニュースであることを見抜いたもの。
 調査は1か月続けられた後、調査のための架空の情報だったことが明かされた。
 この研究の結論は、「偽ニュースは大きな反響を生み出した。多くの人はフェイスブックの友人などを通じて知らされる情報をうのみにしており、審議の判断は極めて難しい」となったらしい。

 このニュースの注目点は、フェイクニュースの社会的影響度についてではない。
 こんな研究実験が堂々と行われたという点だ。
 日本では、こんな研究は、事前の倫理審査の段階ではねられる。
 無理に実施したとしても、故意に偽ニュースを流した行為そのものが猛烈な批判を浴びる。
 しかも、偽ニュースは、人種差別的偏見を刺激するような内容になっている。
 この偽ニュースの中の「難民」の部分を「在日外国人」に置き換えたらどうなるかを考えれば、その問題の大きさが分かる。
 たとえ研究のための実験だとしても、わざとこのような偽ニュースを流して、社会的影響を及ぼそうという行為そのものが反社会的行為として、避難されるだろう。

 ところが、ドイツでは、故意に偽ニュースを流した調査手法に対する批判は起きていないのだという。
 偽ニュースの内容は、難民への反感を煽るような内容であり、反応が拡散しやすい刺激的な内容を敢えて選んでいる。
 これでは、偽ニュースの社会的影響を研究した実験というより、国民の難民への偏見を確認した実験にしかなっていない。
 さらに、偽ニュースの社会に及ぼす影響は、過去に実例が山ほどあり、その実態を調べれば十分で、わざわざ同じような実験を行う必要性は低い。
 「偽ニュースは大きな反響を生み出した」という結論は、こんな実験をするまでもなく、誰もが知っていることで、ここに新しい知見はない。
 もしかしたら、これは研究というほどのものではないのかもしれない。
 無名の研究者が、悪ふざけでこんな遊びをしてみました、という程度ではないか。
 思いのほか反響があったので、それを社会的な実験という名目で結果を公表したように見える。
 
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2017年08月01日

北ミサイルのリスクに備えよう

 北朝鮮ミサイルのリスクが日に日に高まってきている。
 前回のミサイル発射は、異例の深夜に行われ、しかも、従来では考えられない山間部から発射されている。
 「いつでも、どこからでも」というところを見せつけようとしている。
 事前にミサイル発射の動きは察知されていたが、この時刻、この場所を予測した人はいなかった。
 北海道の奥尻島沖150qの日本海に着弾したらしい。
 NHKの屋外カメラが、火の玉になって落下していくミサイルを捉えていた。
 これほど、日本の領土に近いところに落下したのも初めてだ。 
 上空3500qまで打ち上げられ、自然落下で着弾する。
 僅かに軌道がずれただけで、落下地点は簡単に150qぐらいずれそうだ。
 海上では、航行している船舶もあるはずだが、被害がなかったのが不思議なぐらいだ。
 もはや、北ミサイルは、現実の脅威になっている。
 いつ海上の船舶に命中するか分からない。
 いつ日本領土に落下するか分からない。
 大気圏再突入の時の衝撃で、ミサイルが粉砕されたら、細かい破片となって降り注ぐ。
 被害範囲は、一気に広がる。

 次は、日本列島を超えて、太平洋に落下させるミサイル実験を実施しそうだという。
 いま、北ミサイルのリスクに最もさらされているのは、日本だ。
 次のミサイル発射時には、いよいよJアラートが作動するかもしれない。
 その時に向けて、日本政府はどのような対応を進めているのか不明だ。
 何らかの準備を進めているはずだが、外交戦略上の機密情報となっている。
 だが、実際には何もできないのではとの声が多い。
 そして、実被害が起きても、日本政府のできることは、北朝鮮に対して強く抗議することが精いっぱい。
 アメリカも手出しをできそうにない。
 「1発だけなら誤射かもしれない」ということで、うやむやにするのか。

 今回のミサイルは、発射から着弾まで約45分だった。
 ミサイル発射と同時にJアラートが発信されたら、着弾までに40分ぐらいの猶予があることになる。
 着弾場所ははっきり分からないものの、40分の時間があれば、最低限の安全行動を取る余裕は十分ある。
 Jアラートが鳴ったらどうするのか。
 これは、私たちが、常に意識しておかなくてはならないだろう。
posted by 平野喜久 at 17:28| 愛知 ☁| Comment(0) | リスクマネジメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月20日

蓮舫氏の国籍記者会見:マスコミの甘やかしが民進党弱体化の原因

 18日、民進党党首の蓮舫氏が記者会見を開き、自身の国籍問題について説明をした。
 与党批判では舌鋒鋭く追及することを得意とする彼女らしからぬ生ぬるい会見だった。
 会見の内容については、目新しい情報は何もない。
 戸籍を開示するのしないのと大騒ぎだったが、去年の10月に国籍選択が行われたことが確認されただけだで、そんなことはみんな知っていたことだ。
 会見のポイントは、3つ。
1.現在は日本国籍単独であること。
2.去年10月までは二重国籍だったが、自分は18歳以降ずっと日本国籍単独と思っていた。
3.国籍公開は差別主義・排外主義に通じるもので、あってはならない。

 国民の聞きたいことに答えていない。
 一番のポイントは、二重国籍のまま立候補し政治家になっており、選挙公報の経歴に「帰化」とあるのは経歴詐称に当たるのではないかとの疑いが指摘されているのだ。
 ところが、自分はずっと日本国籍単独と思っており、結果として二重国籍だったとしても、故意ではない、ということで免責である、との主張だ。
 与党批判に厳しい蓮舫氏にしては、自分自身には信じられないほど「甘い」と言わざるを得ない。
 過去のマスコミインタビューでは、自分自身が二重国籍であったり、台湾籍であったり、中国籍であったりと、堂々と答えている。
 多国籍であることをアピールして、国際人であるかのようなキャラを売りにしていたのだ。
 ところが、記者会見でこのことを指摘された蓮舫氏は、「浅はかだった」と簡単に返した。
 つまり、自分は日本国籍単独であると思っていたが、キャラ立てのためにあえてあのような物言いをしていたのだという。
 去年は、過去のインタビュー内容は、「雑誌社の編集間違い」と言っていた。
 それが、いまや、過去インタビューは自分自身がわざとついた嘘だったと堂々と言っているのだ。

 ところが、去年まで二重国籍だったことが明確になったことから、結果として過去のインタビュー発言は正しかったことになる。
 普通に考えれば、国際人タレントとして売るためには、多重国籍の方がキャラ立てしやすいので、敢えてそれを放置し利用していた、と解釈できる。
 となると、嘘を言っているのは過去インタビューではなく、いまの記者会見ではないのか。
 
 過去インタビューでは、「中国籍」という言葉も出てくることから、台湾籍だけでなく、中国籍も含めた三重国籍だったのではないか、との憶測まで飛び出す始末だ。
 
 国籍公開は私で最後にしてもらいたい、とまるで自身が風評被害の被害者であるかのような物言いも気になる。
 風評の源は、すべて自分自身の発言に端を発している。
 安倍総理に対して、「ますます疑惑は深まった」「きっちり説明責任を果たせ」と迫っている蓮舫氏だが、同じ言葉がそのまま自身に跳ね返ってくる。

 実は、今回の記者会見で、いきなり代表辞任を発表するのではないかと思っていた。
 知りませんでしたで押し通すには無理があることは明らかなので、過ちを認め、謝罪し、その責任を取る形で、代表を辞任すると言えば、筋が通った。
 過去に二重国籍のまま3度の選挙に立候補していることから、公職選挙法違反の疑いも払拭できない。
 それを踏まえると、議員辞職まで踏み込めれば、最善の策だった。
 彼女の知名度なら、議員辞職したところで、次の衆院選で当選は間違いない。
 そうすれば、禊ぎと衆議院への鞍替えが同時にできて、申し分ないではないか。
 なぜ、党首にとどまってしまったのだろう。
 民進党は党勢回復のチャンスをみすみす失ったように見える。

 どうして民進党はここまで弱体化してしまったのか。
 それは、マスコミに甘やかされすぎたからだ。
 政権についていた時もマスコミには甘やかされていた。
 政権を失った後も、同じ。
 そのために、なぜ政権を失うことになったのかという厳しい反省が行われずに来てしまった。
 そのことが、党勢浮揚のきっかけを得られない元凶ではないだろうか。
 野党の中で、政権担当経験あり、というのは何物にもましてアドバンテージがあるはず。
 民進党議員の中には、元国務大臣がたくさんいる。
 このメリットがまったく生かせてない。
 
 蓮舫氏は代表になるときに、「政策提言のできる政党になる」と宣言した。
 この言葉に期待した。
 だが、やっていることは、共産党と共闘して安倍政権の足を引っ張ることだけ。
 マスコミもこれに同調する。
 マスコミ受けを狙ったら、「政策提言」よりも、「安倍やめろ」の方が手っ取り早い。
 それで、民進党は政権批判しかできない政党になってしまった。
 今回の二重国籍問題で、蓮舫氏がこの程度の記者会見で済まし、党首続投を宣言できるのも、マスコミの甘やかしによって、厳しく問われることもなく、このまま幕引きにしてくれることが分かっているからだ。
 マスコミは野党批判は与党を利することになるので、控えてしまう。
 だが、この甘やかしが野党をますます弱体化させ、結果として、政権交代不能にしてしまっていることに気づいているか。
 

 
 
 
posted by 平野喜久 at 20:40| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月15日

蓮舫代表の二重国籍問題:問題の根は深い

 民進党の蓮舫代表の国籍問題が再浮上している。
 都議選で自民党が歴史的な大敗を喫した。
 ところが、もう1つ大敗した政党があった。
 民進党だ。
 5議席と3分の1に激減。
 さらに、各メディアの世論調査では、自民党の支持率は急落しているが、同時に民進党の支持率も下落し続けているのだ。
 自民党のマイナスが民進党のプラスにつながっていない。
 このことに危機感を覚えた民進党議員から蓮舫代表に対する不満が噴出することとなったようだ。
 党内から「二重国籍問題が尾を引いている」との声が上がり、戸籍公開へと動き始めた。
 ところが、この戸籍公開についても、党内に異論がある。
 このことが、差別主義、排外主義の扇動に乗せられることになり、悪しき前例になることを恐れているらしい。
 蓮舫氏自身も記者会見で、次のように発言。
「特に我が国では、戸籍はすぐれて個人のプライバシーに属するものであり、これまで私も言ってきたが、積極的に、あるいは差別主義者・排外主義者の方に言われてそれを公開するようなことが絶対にあってはいけないと、今なお思っている」
 学者の中にも同調する者がある。
 「出自を明らかにしなければ、公的な言動ができなくなるのは恐ろしい全体主義だ」
 いつの間にか、問題の論点がずれてしまっている。
 18日に蓮舫氏は既に二重国籍が解消されていることを証明する証拠資料とともに説明をする予定だという。
 蓮舫氏の貴重な記者会見が、「差別主義、排外主義には屈しない」との意見表明の場で終わってしまったら、この問題は手が付けられなくなる。
 なぜなら、この問題の本質は、そこにはないからだ。

 この問題は、民進党の代表選の最中に出てきた。
 ある評論家が彼女の国籍に疑問を持ち、問題提起をしたことが発端。
 ネット上や週刊誌で取り上げられ、一部で話題になったものの、大手メディアを巻き込んでの大騒動にはならなかった。
 代表選の間にも記者から何度も質問を受けるが、常にあいまいな説明に終始した。
 途中から言っていることが変化しており、実際にどうなっているのか分からない状況だった。
 そのうち、ネット上では、彼女の過去のインタビュー記事などが発掘され、そこに、「台湾籍を持っている」「私は二重国籍なんです」という発言が次々と見つかり、自分自身、国籍の二重性を承知しており、むしろそれを売りにしていたことが分かってきた。
 代表選の終盤になって、ようやく台湾籍が残っていたことを認め、「台湾籍の除籍手続きを行ないましたので、これでこの問題は終了です」と勝手な幕引きをしてしまった。
 その後、投票が行われ、蓮舫氏が圧勝。
 民進党党首に選出された。
 ところが、その後、民進党の勢力は回復の兆しを見せることなく、むしろ最近は凋落の傾向を見せ始めたことから、党内で危機感が広がってきたといったところだろう。

 なぜ、彼女の国籍がこれほど問題になるのか。
 彼女の出自が問題なのではない。
 彼女の国籍がいままでかなりの異動があり、それがはっきりしないので、問題になっているのだ。

 問題の本質は、国会議員になった時、彼女の国籍はどうなっていたのかだ。
 その時、すでに日本国籍を取得済みで、同時に国籍選択も終わっており、さらに台湾籍の除籍も済んでいれば、何の問題も存在しない。
 だが、以下のケースで問題が生じる。

1.台湾籍の除籍手続きだけができていなかった
 日本国籍を取得し、国籍選択はできていても、それを台湾当局に連絡し、除籍申請をしなければ、台湾籍が残ってしまう。
 除籍申請したのが最近だとすると、その間、ずっと二重国籍のまま国会議員を務め、大臣までなっていたことになる。
 ただ、この場合は、日本国籍を持っているし、日本国籍を選択しているので、単に台湾籍除籍の手続きを怠けていた、という程度の話で終わってしまう。
 「うっかりしてました」ということで終わる。

2.国会議員立候補時点で、国籍選択ができていなかった
 このケースは問題がある。
 二重国籍のまま、どちらを選択するかの宣言が行われていないので、形式上、どちらの国籍でもないことになってしまう。
 彼女の選挙公報には、「85年に帰化」と明示してあったので、この経歴が嘘ということになる。

3.台湾籍の権利行使の事実が見つかった場合
 このケースが最悪の事態となる。
 日本国籍を取得したものの、国籍選択の意思表示をしなかったとしても、その後、台湾籍の権利行使を行なってしまうと、その時点で、台湾籍選択の意思表示をしたものとみなされ、自動的に日本国籍は消滅となる。
 この事実が判明した時点で、過去にさかのぼって、日本国籍の事実が取り消されることになる。
 この台湾籍の権利行使は国会議員以前でも同じ。
 この場合は、日本国籍を持たないものが国会議員になり、大臣職を務めていたということになり、国家レベルの一大事となる。
 過去に彼女が国務大臣としてかかわった公文書もすべて無効ということになってしまい、一議員の不祥事では済まなくなる。
 日本国籍取得後に、台湾パスポートを使ったとか、北京留学時に台湾人として優遇措置を受けていたとかいった事実が出てくると始末が悪い。

 
  
posted by 平野喜久 at 10:47| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月08日

NHKのネット配信にブレーキ:総務大臣の見解

 朝日新聞の報道による。
 高市早苗総務相は7日、テレビ番組のネット同時配信が実現した場合、NHKがネットだけで視聴する世帯からも受信料を取ることについて「多岐にわたる問題がある」と述べ、否定的な見解を示した。
 受信料の対象を広げようとするNHKの姿勢には、民放からも異論が相次いでいる。

 NHK会長の諮問機関が、テレビ番組のインターネットでの「常時同時配信」を実施すべきだとする答申案をまとめた。
 これが発端だ。
 このネット同時配信の話は以前からあったが、それが本格的に動き出しそうな気配を見せ始めた。

 テレビ番組のネット配信。
 これだけなら、何の問題もないように見える。
 テレビだけでなく、ネットでも番組が見られるようになるのなら視聴者にとっても結構なこと。
 だが、受信料の話が絡んでくると、問題の本質が変わってくる。
 現在の受信料は、受信設備を設置した者にNHKとの契約の義務が課されている。
 受信設備とはテレビのこと。
 テレビを持たなければ契約の必要はない。
 ところが、最近、テレビを持たない世帯が出てきた。
 単身の学生などは、スマホがあれば、テレビがなくても困らない。
 それで、テレビがないことを理由に契約を拒否する世帯が増えてきた。
 それでもNHKは引き下がらない。
 スマホでワンセグが見られるなら受信契約の必要あり、と勝手な解釈で、契約を迫るようになってきた。
 これについては、裁判でも争われるようになり、最終決着がついていない。
 このスマホを受信設備と解釈するかどうかという微妙な判断が問われている。
 一般常識では、スマホをテレビと同じ放送受信設備とみなすのには無理がある。
 
 そこで、出てきたのが、放送のネット配信だ。
 ネット配信を受信できるのであれば、受信契約の義務あり、ということにすれば、不透明な部分はなくなる。
 すべての世帯から受信料を徴収できるというわけだ。

 ネット受信については、受信料を通常よりも安価に設定してはどうか、という意見も出たらしいが、「そんなことをすると、ネット受信に切り替えようとする者が続出するからだめだ」と反対意見が出たという。
 もうこうなると、誰のための受信制度なのか分からない。
 少しでも国民から搾り取らなければ損だ、といった感覚だ。
 競争の存在しない特異な収入体系に胡坐をかいてきた組織の醜悪な姿勢しか見えない。

 いままで、NHKの勝手な解釈には及び腰だった総務省だったが、さすがに今回は大臣から異論が出た。
 高市大臣は閣議後会見で「放送法上、放送と通信(ネット)は全く別の概念。受信料を求める法律上の位置づけはない」と指摘。
 NHKがテレビを持たない世帯からも受信料やそれに近い費用負担を得るため、ネット配信を受信料で行う「本来業務」の一部と位置づけようとしていることに釘を刺した。
 NHKの目的は、ネット配信によるサービスの充実にあるのではなく、受信料の更なる徴収のために、ネット配信を行なおうとしていることが見抜かれているのだ。
 さすがに、これでは国民の理解が得られない。

 フジ・メディア・ホールディングス(HD)の金光修専務は7日の定例会見で「放送法の枠外のサービスを(受信料で行う)業務と規定するのは議論がずれている」と批判。
 TBSHDの武田信二社長も5日の定例会見で「大変違和感がある」と述べた。

 NHKの受信制度については、不透明なところが多すぎる。
 いままでは、NHK側の勝手な解釈がまかり通り、国民が疑問に思っても抵抗する手段を持たなかった。
 放送法自体が時代に合わなくなっている。
 受信制度の見直しから、根本的に議論されるべきだ。

posted by 平野喜久 at 13:37| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする