2016年12月07日

ユーキャン流行語大賞に存在意義はあるか

 ユーキャン新語流行語大賞をめぐって議論が絶えない。
 年末恒例のイベントになった流行語大賞の発表だが、最近、その設定基準がおかしいとの指摘が上がっている。
 今年は、「神ってる」大賞になった。
 広島カープの快進撃ぶりを驚きとともに讃えた言葉。
 野球ファンにとっては、なじみがあったのかもしれないが、それ以外の人には縁がなかった。
 
「こんな言葉、どこで流行ってたの?」
「周りで誰もこの言葉を使っている人がいないんだけど」
 という声があちこちから。

 多くの人が違和感を覚えたのは、「保育園落ちた。日本死ね」がトップテンに入ったこと。
 「○○死ね」というような呪詛の言葉が流行語に入れられていることに反発が起きているのだ。
 更に、授賞式では、民進党の議員が満面の笑顔で登壇していたことも、人々の違和感を増幅した。
 
 このような違和感は去年も指摘されていた。
 去年のトップには「トリプルスリー」が入っていたが、これも野球関連で、一般の人になじみがなかった。
 更に、トップテンには、「あべ政治を許さない」が入っていた。
 この「あべ政治を許さない」は、野党議員が国会内で採決に抵抗するときにカメラ向けにビラを掲げていたが、そのビラにかかれていた言葉だ。
 ニュースでその映像を見ることがあったが、この言葉が一般に流行していたとはとても言えない。

 最近の流行語大賞は、選考委員の意図的な選考になっている。
 6名の選考委員が公表されているが、とても一般国民を代表しているように見えない。
 さすがに、今年の「日本死ね」には、ネット上では異論が噴出した。
 その異論に対して、選考委員の一人が反論しており、そのことが更に騒ぎを大きくしている。
 
 選考委員の一人は、「議論を呼ぶもの、問題を喚起するものとして選んでいる」と説明した。
 流行語とは、人々の間で流行した言葉だと私たちは思っているが、選考委員は勝手にその基準を変えてしまっている。
 それに、本当に議論を呼ぶものを選考基準にしているのだったら、もっと別のキーワードがいくらでもあった。
 「生前退位」は、その筆頭だろう。
 これなど、日本の国家観まで左右するような本質的な議論がいまだに絶えない。
 だが、この言葉は、ノミネートさえされていない。
 単に選考委員が、個人的に問題視し記録に残したい言葉を、勝手に選んでいるだけというのが実態だろう。

 この選考委員は、こうも述べた。
「難しい専門用語が入っているわけでもない。「ニュースぐらい見ろ」と言いたい」
 選考委員であることが何かの権威であるかのような、この上から目線の横柄な言動は目に余る。
 この思い上がりが、一般国民との意識の乖離をもたらしているのだろう。
 今年の流行語を数人の選考委員の思わくで決定しているこのイベント。
 一般国民の支持は失われつつある。

 本当に、今年流行した言葉は何だったのかは、誰もが知りたい。
 こんな恣意的な選考ではなく、もっと科学的な選考をしてもらいたい。
 「ニュースで最も多く取り上げられた言葉」
 「検索エンジンで最も多く検索された言葉」
 「ツイッターで最も多くつぶやかれた言葉」
 これだったら、特定の意図が介在しない客観的なデータが得られるだろう。
 ここにこそ、本当の世相が現れるのではないだろうか。

 ユーキャン流行語大賞は、過去の受賞記録とともに永遠に残る。
 過去の受賞記録を振り返ることで、その当時の世相を知ることができる。
 だが、今回のような意図的な流行語の選定が行なわれると、世相を間違って記録してしまうことになる。
 例えば、20年後に今の受賞記録を見た人は、「あべ政治を許さない」「日本死ね」という言葉を見たら、当時の国民は政府や国に対して反感と不信感を抱いていたと勘違いするだろう。
 こちらの方が、問題が大きい。
 
 このようなユーキャン新語流行語大賞に存在意義はあるのか。





 
 
 
  
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2016年12月06日

キュレーションサイトの害悪:WELQ

 DeNAが運営するキュレーションサイトWELQが批判に晒されている。
 WELQは、健康医療に関する記事を集めた情報サイト。
 検索エンジンでも常に上位に表示される目立つサイトだった。
 ところが、その記事内容があまりにもお粗末だったため、あちこちから疑問の声が上がり、炎上となった。
 騒動の大きさに驚いた運営者は、サイトを慌てて閉鎖したようだ。

 この手のキュレーションサイトは、人々が関心を持ちそうな情報を手軽に入手できる情報源として利用者が多かった。
 だが、その運営の実態が分かるにつれて、その信憑性はもはや地に落ちた。
 WELQの場合、自由な投稿者の記事によってなりたっている風を装っているが、実際は、クラウドワーカーによる記事の粗製乱造によるものだった。
 1記事につき1万文字以上で報酬数千円というのが1つの相場らしい。
 記事内容の精度は求められず、キーワードを多く含んだボリュームのある記事を量産することだけを求めていたようだ。
 SEOライティングと言って、検索エンジンにヒットしやすい記事の書き方がある。
 そのSEOライティングにあった記事が求められるのだ。

 この手の文章は、不自然で読みにくい。
 キーワードが頻繁に出てくる。
 同じキーワードが頻繁に出てくるサイトは、検索エンジンにかかりやすい。
 だから、指示語を使わず、キーワードをしつこいぐらいに繰り返す文章になる。

 記事の情報量が豊富。
 情報量の多いサイトほど充実していると判断され、検索エンジンでヒットしやすい。
 だから、ただ文字数を稼いでいるだけのような無意味な文章がだらだらとつづられることになる。

 これらの記事ライターは、全くの素人がアルバイト感覚で取り組んでいるらしい。
 だから、実際の知見に基づいた記事でもないし、正確な情報を調べたり検証したりする作業も行なわれていない。
 ネット上で拾い集めた文章をコピペして、一定の分量の記事にひたすら仕上げているだけ。
 内容がいい加減になるのは目に見えている。

 問題は、DeNAという有名な上場企業がこのサイトを運営していること。
 この運営企業の知名度が、このサイトにお墨付きを与えてしまっているのだ。
 これが、匿名による怪しげな個人ブログだったら、誰も注目しないし、問題にもしないだろう。

 DeNAの事業戦略としては、ゲームの売り上げが低下傾向にある中、次の収益の柱の1つとして、このキュレーションサイトの運営事業があったのだそうだ。
 普通なら、情報メディアとしての人気と信頼度を獲得するには、時間がかかるし、地道で継続的な取り組みが必要だ。
 だが、ベンチャーのDeNAにそんな悠長なビジネスモデルはありえない。
 それで、安易な方法で記事を量産することで、一気に存在感のあるメディアを作り上げようという作戦だったのだろう。
 人気メディアを持つことの狙いは、広告収入にある。
 多くのアクセスがあるかどうかが最大の目的になる。
 だから、記事内容の信憑性よりも、SEO対策を徹底させて、アクセスさせることだけを狙った記事の量産になった。

 WELQの記事は、医療情報の内容がでたらめという点で、薬機法(薬事法)違反という問題とともに、他人の文章を勝手に剽窃、改竄しているという点でも問題があった。
 これらは、ネットの抱える問題として古くから指摘され続けてきたことだ。
 ネットベンチャーともいえるDeNAが、ネットの問題を丸抱えしたようなビジネスを行なっていた。
 あまりにも安易であり、レベルが低すぎる。
 こんなことをすれば自らの事業領域を破壊するようなものということが分からないほど、目先の事業展開に行き詰まっていたということか。





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2016年12月01日

レジリエンス認証を目指そう

 2016年からレジリエンス認証がスタートした。
 レジリエンス認証とは、政府の内閣官房国土強靭化推進室が行う施策で、国土強靱化の趣旨に賛同し、事業継続に関する取組を積極的に行っている事業者を「国土強靱化貢献団体」として認証する制度だ。
 「国土強靭化貢献団体」というと何のことか分からなくなるが、平たく言うと、「まじめにBCPに取り組んでいる事業者を国が応援しよう」という制度ということになる。
 いま、国策として国土強靭化政策が進められているが、これは、国や自治体が対策をすればいいというものではない。
 民間の事業者も、同じように準備を進めてくれなくては、本来の国土強靭化にならない。
 民間事業者のBCPの取り組みは一部で取り組まれているものの、全体的な普及が進んでいない。
 普及が進まない理由としてはいろいろあるが、その中の1つとして、BCPに取り組むことのインセンティブが働かないということが挙げられる。
 つまり、せっかく苦労してBCPに取り組んだとしても、誰かに評価されるわけでも認められるわけでもないとしたら、ただ勝手に取り組んでいるだけで、そのメリットが感じられないというわけだ。
 そこで、まじめにBCPに取り組んでいる事業者を国が積極的に認めて、その活動を応援しようということになった。
 それが、このレジリエンス認証だ。
 レジリエンス認証制度に表向き「BCP」という言葉はあからさまに出てこない。
 だが、その目的はBCPの普及にある。
 BCPという言葉を避けているのは、この言葉が欧米発祥の概念であるし、国際規格にもBCP関連のものがあるために、それらとは別の日本独自の制度であることをはっきりさせる意味があるのだろう。
 BCPという言葉は使われていないが、やっていることは、ずばりBCPそのものだ。

 中小企業の中には、せっかくBCPに取り組んでいるものの、それで十分なのか不十分なのか、方向性があっているのか間違っているのかが分からないまま不安の中での取り組みになっている場合がある。
 そのような場合は、このような認証制度は非常にありがたい。
 この認証を得ることで、我が社のBCPは一定レベルにあることを客観的に証明される。
 認証を受けると、認証マークの使用を許可されるので、それを内外へのアピールに使うことができる。
 これが国の認証であることは、取引先に対しても絶大の信頼になる。
 自社の案内パンフレットや名刺、ウェブサイトに、認証マークを表示し、我が社のBCPをアピールできる。
 この認証制度を知らない人でも、このマークを見れば興味を示してくれるので、それをとっかかりにして、我が社の取り組みを知っていただける。
 この認証制度は、ISOのような国際規格と違い、日本の事業者の実態に合った審査が行われており、現実的で意味のある制度になっている。

 この認証制度の審査で重視されているのは、活動実績だ。
 つまり、BCP文書を作りましたというだけでは評価しない。
 BCP文書を作ることは当たり前だが、それだけでBCP活動が終了するわけではない。
 BCPを策定すれば、実際にそれに則った事前対策が行なわれなくてはいけない。
 行動計画があれば、それに基づいた教育訓練が行われなくてはいけない。
 BCPの見直しは常に行われているはずで、見直しのたびにバージョンアップがなされていなくてはいけない。
 そのような活動が行われているのかどうかが審査のポイントになっている。
 単なる文書主義や形式主義に陥ることなく、BCPの実効性に焦点を当てているところが特徴だ。
 
 もう1つの特徴は、経営トップの積極的な関与を求めていることだ。
 認証審査は、1次と2次に分かれる。
 1次審査は書類審査だが、2次審査は経営者ヒアリングが行なわれる。
 この意味は大きい。
 つまり、BCPは経営トップが関わるべき重要課題という位置づけを求めているのだ。
 総務の一担当者に任せっきりで、社長が感知しないというケースがあるが、この認証制度は、それを認めない。
 だから、面談による審査で、社長自身がBCPの内容を理解し、率先して活動を進めているかどうかが問われることになる。

 この認証制度で、求められる項目は多岐にわたるが、いずれも、まじめにBCPに取り組んでいる企業であれば、当たり前の内容ばかりで難しいことは1つもない。
 制度の趣旨がBCPの普及であり、厳しい審査で不合格を出すことは求められてない。
 むしろ、活動を応援してくれる制度だと理解したほうがいい。
 事業者の実態に合った審査をしてくれるところもありがたい。
 中小零細事業者が大企業と同じ評価基準で機械的にチェックされたら、すべて不合格になってしまうだろう。
 大企業は大企業にあったBCPがあり、中小零細事業者にはそれにふさわしいBCPがある。
 少々取り組み不十分なところがあったとしても、そこを指摘して、今後の活動の在り方をアドバイスしてくれる。
 そういう意味では、中小企業にとっても対応しやすく、意味のある制度になっている。

 大企業は、BCPの取り組みは行われていて当たり前で、このような認証をわざわざ取得するメリットは少ない。
 中小企業の場合、この認証取得のメリットは大きい。
 むしろ、中小企業へのBCP普及のために設けられた制度と言ってもいい。

 BCPに取り組む場合、このレジリエンス認証取得を1つの目標に置くことをお勧めしたい。
posted by 平野喜久 at 16:47| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | リスクマネジメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月27日

マンスリーマンションの入居者に受信料支払い義務なし:東京地裁判決

 マンスリーマンションに入居した20代の男性が、NHKに受信料を不当に支払わされたとして、NHKに受信料1310円の返還を求めた訴訟。
 東京地裁の判決は、「部屋にテレビを設置したのは物件のオーナーか運営会社であり、男性には受信料の支払い義務はなかった」として、NHKに1310円の支払いを命じた。

NHK側の主張はこうだ。
 「マンションの運営業者は『受信料は入居者が負担する』と明示していたほか、テレビを使っていたのは男性で、受信契約を結ぶ義務があった」
 この主張は明らかにおかしい。
 放送法では、受信機を設置したものに受信契約の義務を課しており、設置者がこの男性でない以上、契約の義務はなく、したがって支払いの義務も発生しないのは当然だ。
 NHKが「テレビを使っていたのは男性だ」と言っているが、これは、NHKが言ってはいけない言葉だろう。
 つまり、テレビを使ったかどうかで、受信料の支払いが発生するかどうかが決まると言ってしまっているからだ。
 放送法では、テレビを視聴したかどうかで受信料の支払い義務が発生するわけではない。
 テレビを見るか見ないかは関係なく、テレビを設置したことをもって契約の義務ありということになる。
 テレビの所有者に公平に負担してもらうためにこういう制度になっている。
 視聴料ではなく、受信料という名目になっているのも、このためだ。
 NHKも普段からこのように主張しており、「NHKは見ないから」という言い逃れは許さなかった。
 なのに、今回の裁判では、NHKは、この男性がテレビを使っていたことをもって、支払い義務ありという主張をしてしまっている。
 自家撞着をきたしている。
 裁判に勝つために、弁護士が無理やり理屈を作り上げたために、齟齬をきたしており、そこを裁判官に突かれた形となった。
 特に、「テレビを使っていた」という奇妙な表現で、ずいぶん、無理をしているのが分かる。
 普通なら「テレビを見ていた」というべきところだが、それだと、テレビの視聴が支払い義務の条件になってしまうので、「テレビを使っていた」という不自然なことばで逃げようとしたのだろう。
 テレビを見なかったとしても、居住スペースにテレビがあるだけで「使っていた」という解釈にもっていこうとしている。
 我が家にガスコンロがあるだけで、ガスを使っていたことにされるようなものだ。
 これほど、一般国民の常識とかけ離れた解釈はない。
 NHKの受信制度は、あまりにも現代の私たちの感覚とかけ離れすぎている。
 こんな無理筋の主張をしなければ受信制度を維持できないのだとしたら、この受信制度そのものが現代にそぐわなくなっているということだろう。
 いい加減に、根本から制度を見直すべきときが来たといえる。






 
 
posted by 平野喜久 at 18:39| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

遺族の疑問は解消していない:大川小津波訴訟

 大川小の津波訴訟。
 14億円の賠償命令が出された。
 地震直後に適切な情報収集を怠ったこと、津波の襲来を知ってからの避難行動が不適切だったことにより、学校側の責任が厳しく判断された。
 遺族側は勝訴したが、これでもまだ納得できるところまでいっていないだろう。
 「なぜ?」という疑問が解消されていないからだ。

 なぜ、50分間も何もせずに校庭で待機していたのか。
 なぜ、裏山に逃げようとする児童を引き戻したのか。
 なぜ、川岸の方向に避難しようとしたのか。

 大川小周辺にもいろんな小中学校がある。
 大川中、橋浦小、北上中、吉浜小。
 これらの学校の生徒児童は適切に避難し、犠牲者はゼロだ。
(在校生の中に犠牲者のいる学校もあるが、いずれも帰宅後に津波に襲われたケースばかりだ)
 大川小の犠牲だけが際立っている。
 だから、その理由をみんなが知りたがっているのだ。

 学校側の行なった検証も遺族を納得させるものではなかった。
 検証委員会を立ち上げて調査もしたが、学校側の免責を主張するための調査になっていて、まったく客観的な検証になっていない。
 裏山に登ろうとしていた児童を引き戻したという話については、事実確認ができないとして、検証報告書からは外された。
 そのかわり、裏山は崩壊の危険があるという地元民の指摘があったとか、川岸への移動は地元住民の先導で行われたとかいうあいまいな証言を採用して検証結果に盛り込んでいる。
 ただ、学校側に非がないことをでっちあげるための検証だった。
 これに遺族が怒って、訴訟を起こしたのだ。
 実態はどうだったのか、ということを解明してほしい。
 どうして、こんなことになったのかを明らかにしてほしい。
 遺族の思いはここにある。

 一番の問題は、唯一生き残った教員が、何の証言も残していないことだ。
 教師になりたての新米教員だ。
 過去に1度だけ、遺族への説明会に顔を出したことがあったらしいが、その後は姿を見せていないという。
 今回の裁判でも証言を拒否した。
 学校側から止められているのかもしれない。
 この教員自身も、PTSDを患い、思い出すのもつらい日々を送っているのに違いない。
 当時の状況を唯一正確に伝えられる人物だけに、彼に課せられた責任は重い。
 犠牲になった児童らのためにも、そして、後世に残すべき教訓のためにも、勇気ある証言を期待したい。




 
 
 
posted by 平野喜久 at 09:50| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | リスクマネジメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月26日

14億円の賠償命令:大川小津波訴訟

 注目の裁判に判決が出た。
 東日本大震災の津波で児童74人と教職員10人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校を巡り、児童23人の遺族が市と県を相手取り23億円の損害賠償を求めた訴訟。
 仙台地裁は26日、市と県に約14億円の支払いを命じた。

 裁判では、津波の襲来が予見できたかどうかが争われた。
 学校側(県、市)は、もともとハザードマップでは大川小は津波浸水エリアに含まれていなかったことをもって、予見不可能を主張した。
 だが、裁判所は、それでも今回の津波は予見可能であったとの判断を下した。

 地震発生直後、大川小では児童らを校庭に並ばせ待機させていた。
 その後、避難行動を開始するが、それまで50分間を無駄に過ごしてしまった。
 この間、ラジオではしきりに津波の襲来を呼び掛けていた。
 地域の広報車が津波非難を呼び掛けていた。
 保護者の何人かは学校に直接子どもを迎えに来ていたが、その時、異口同音に津波の襲来を警告していた。
 生き残った児童の証言によると、学校にやってきた保護者が、声高に迅速な避難を学校側に呼び掛けていたが、教員の方は、「まぁ、まぁ、落ち着いてください」と一生懸命になだめていたという。
 児童の中にも騒ぎ出すものがおり、教員はそれを落ち着かせることに専心していたらしい。
 生存者の証言の中には、「裏山に勝手に逃げ出す児童を教師が連れ戻して校庭に並ばせた」というものがあったという報道もある。

 50分経過後、念のためにもう少し高台の方に移動しようということになって、児童らは行列を作って移動開始。
 向かった先は校庭よりも高台だったが、川岸の方向だった。
 川をさかのぼってきた津波が上流であふれ、高台の方から流れ下ってきた。
 その流れに児童らと引率の教員らが飲み込まれたらしい。
 中には、行列から離れ、とっさに近くの小山に駆け上がった児童もおり、彼らだけが助かったという。
 難を逃れたのは、児童4人と、教員1人だ。

 今回の判決は、学校側に非常に厳しいものとなった。
 「ハザードマップでは浸水エリアではなかったから」「千年に一度の未曽有の大災害だったから」という言い訳が通用しないことをはっきりさせた判決でもある。
 よく、このような津波訴訟を見て、「こんな裁判を起こしたって、亡き子は戻ってこないんだから、無駄だろう」という人がいる。
 それは違う。
 訴えた遺族らの気持ちは、賠償金がほしいわけでもないし、裁判で憂さ晴らしをしようとしているわけでもない。
 「地震なんだから仕方ないよね」で終わってほしくない、という思いがある。
 大川小の尊い犠牲を無駄にしないためにも、今後の教訓につなげなくてはいけない。
 それをはっきりさせるために、裁判に訴えているのだ。
 私たちは、この事例を貴重な教訓として受け継いでいかなくてはならないだろう。







 


 



  
posted by 平野喜久 at 15:52| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | リスクマネジメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月26日

ワンセグ携帯電話に受信料支払い義務なし:さいたま地裁判決

 NHKの受信契約について、画期的な判決が出た。
 ワンセグ機能付きの携帯電話を所有しているだけで、NHKの受信料を払う義務があるのかを争った裁判。
 さいたま地裁は、携帯電話の所持は、「受信設備の設置」というには相当の無理があるとして、NHK側の主張を退けた。
 NHKが全面敗訴したという意味で画期的な判決だが、よく考えてみれば、至極常識的な判決だった。
 むしろ、携帯電話を所持しているだけで受信料を徴収しようとするNHKの論理こそ異常だった。
 携帯電話にも受信契約の義務があるというのは、法律に規定されているものではなく、NHKが勝手な法解釈で主張していたに過ぎない。
 そのことに多くの国民は疑問を感じていた。
 NHKの集金人は当たり前の顔をして、「携帯持ってるなら契約義務がある」と言うし、NHKサービスセンターに確認しても同じことを言う。
 だが、携帯電話を持つだけでNHKに受信料の支払い義務が発生するという理屈は、一般の国民の常識を超えている。
 ワンセグという電波のすき間を利用して余剰的に発信している放送と、ハイビジョン大画面で観るフルセグ放送とが同等の受信契約というところから納得感がない。
 画質や音質は全く違うし、ワンセグの場合は受信できないエリアが多い。
 受信料を徴収する以上、難視聴地域については、NHKが対策を施す義務を負うが、ワンセグについては、NHKは何も対策を行なっていないし、行うつもりもない。
 これで通常の受信料を徴収しようとするのは、誰が考えても明らかにおかしい。
 個人がNHKの主張に納得できないからといって、集金人に反論しても埒が明かない。
 サービスセンターに連絡して担当者と議論しても問題は解決しない。
 集金人やサービスセンター担当者は組織の一員であり、ただNHKの主張を繰り返すだけで、何の権限もないからだ。
 そこで、埼玉県朝霞市の市議会議員、大橋昌信氏が、問題提起を兼ねて裁判に訴えたのだ。
 NHKの非常識な屁理屈が粉砕されたのはよかった。

 判決では、携帯電話は、受信設備の「設置」ではなく、「携帯」である以上、契約義務はない、と解釈した。
 法律の条文解釈に限定している。
 一般常識や国民感情などはあえて考慮から外しているところに注目だ。
 というのは、NHKこそ、一般常識や国民感情を無視して、放送法の条文だけを盾に受信契約を強要してきたからだ。
 今回は、その放送法の条文をもってNHKの主張を退けたところが画期的であった。
 NHKは当然、最高裁まで上訴し続けるだろう。
 しかし、今回の判決はシンプルで隙がなく、覆ることはなさそうだ。
 NHKがどうしても携帯電話にも契約義務を課したいなら、放送法の改定しかない。
 そうなると、NHKの受信契約のあり方が改めて国民の前で議論されることになる。

 もともと、携帯電話は受信契約の対象ではなかった。
 ところが、テレビを所持していないことを理由に受信契約を拒否する世帯が増えてきたために、「だったら、携帯電話があるだろう」となった。
 いつのまにか、携帯電話も受信料の対象となっていた。
  
 NHKはなぜ、一般国民の常識に寄り添おうとしないのだろう。
 NHKは何を守ろうとしているのだろう。
 NHKは何を恐れているのだろう。

 NHKの完全スクランブル化による受信契約の透明化。
 これこそ、最も納得感の高い仕組みであり、NHKが国民に支持される道ではないのか。  

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2016年08月04日

集中豪雨による鉄道全面運休:名古屋

 8月2日の夜は名古屋駅周辺が大変な混乱状態にあった。
 名古屋〜岐阜間の集中豪雨により鉄道が運休したためだ。
 集中豪雨に伴い雷も発生しており、停電の恐れありということで、豊橋から大垣までの広い範囲で全面運休となった。
 JRだけでなく、名鉄まで運休したので、行き場を失った客がたちまち駅にあふれかえることとなった。
 この運休は簡単には解消しなかった。
 4時間ほどたってようやく運行再開となったが、直後にどこかの駅でホームから人が転落する事故が起き、再び運行中止となった。
 最終的には、340分遅れで電車が動き始め、この混乱は、日付が変わった後まで続いたという。

 この時の混乱の様子は、ツイッターに投稿された写真を見るとよくわかる。
 金山駅では、改札に入れない人であふれている。
 名鉄も止まっているので、金山駅のあの広いコンコースは、全面、人で埋め尽くされている。
 名古屋駅の改札内の様子を写した画像もある。
 ホームに上がる階段通路はヒトで埋め尽くされ、身動きできない状態。
 電車がなかなか動かない苛立ちと、人いきれの熱気で、この群衆の不快指数はピークを迎えていただろう。
 ひとりこければ、たちまち群衆雪崩が起きそうな危険な状態にあったことが分かる。
 危機管理の観点で言えば、このような不快指数の高い群衆の中に身を置いてはいけないというのが鉄則だ。
 鉄道会社の「再開の見込みは立っていません」というアナウンスを確認したら、ただちに別の行動を開始すべきだ。
 タクシーによる帰宅を考えるか、その日の帰宅は断念し、ホテルの宿泊を考えるか、だろう。
 タクシーは簡単に出払ってしまうし、周辺ホテルはすぐに満室になる。
 いち早い判断と行動がわが身を助けることになる。

 今回のできごとから、鉄道の全面運休が起きると、1時間もしないうちに駅はヒトであふれかえり、危険な状況が発生するということが分かる。
 このことは、地震の時の教訓になる。
 地震により公共交通機関が停止すれば、たちまち行き場を失った人たちで駅周辺はあふれかえる。
 この群衆の過密と混乱を放置していると、2次災害を招く恐れがある。
 いま、都市部の自治体が、地震発生時の帰宅困難者対策を真剣に行なうようになったのは、このためだ。
 駅周辺の事業者に協力を要請し、万が一の時の帰宅困難者の一時受け入れをお願いしている。
 駅周辺の事業者も、普段、駅周辺という至便の立地で事業を行なえている恩恵に報いるためにも、いざという時の社会貢献が期待されている。
 事業者によっては、食料の備蓄を増やし、寝袋や毛布の用意をして、いざという時の帰宅困難者の受け入れの準備をしているところが増えてきた。
posted by 平野喜久 at 10:33| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月02日

緊急地震速報の誤報:東京湾震度7

 8月1日17時9分、東京湾震度7の緊急地震速報が流れた。
 スマホのアラームが鳴って、画面を見たとき、緊張した。
 「ついに、首都直下地震が来たか」
 ところが、奇妙なことに第1報のアラームだけで次が続かない。
 地震アプリを開いて、情報を見ると、関東エリア一帯が震度7の表示で真っ赤。
 日本列島全域に震度表示が出ている。
 「なんか、おかしい」
 細かいデータを見るとマグニチュード9.1、深さ10km。
 ますますおかしい。
 やがて関東エリアでは地震が起きておらず、誤報だと判明した。

 今回の誤報は、落雷によるノイズが悪さをしたらしい。
 1か所の地震計に過電流が流れ、そのノイズデータを瞬時に解析して発信したために、とんでもない巨大地震という誤報になった。
 緊急地震速報には2種類ある。
 一般向けと高度利用者向け。
 高度利用者向けは、会員向けのサービスで、いち早くキメ細かい情報を提供することを目的とする。
 だから、1か所でも地震データを観測したら、その情報をもとに第1報を出す。
 第1報の速報性に重きを置いているからだ。
 だが、周辺の地震計に反応がなかった場合は、直ちに誤報として取り消される。
 今回、第1報だけで後が続かなかったのは、このためだ。
 3年前の8月初旬にも「奈良県震度7」という誤報があった。
 この時期は、落雷による誤報が起きやすい。

 一般向けは、テレビ、ラジオ、エリアメールなど、広域の不特定多数に配信される。
 複数個所で地震発生のデータを確認した段階でアラームが発信される。
 速報性に劣るが、誤報の少なさが優先されている。
 今回、テレビやラジオで緊急地震速報が流れることはなかった。

 今回の緊急地震速報では、電車が止まったり、オフィスでアラームが鳴ったりして、一時、騒然となった。
 直後に誤報と分かって、ほっとしたが、これは、いい訓練になった。
 本当にうちの装置はアラームが鳴るのか。
 アラームが鳴った時、うちの社員は迅速に安全行動がとれるのか。
 不意打ちの訓練だからこそ、実践レベルの確認ができる。

 誤報であったことに文句を言ってはいけない。 
 異常データを見逃さずに瞬時に反応してデータ配信されたことだけでも評価しよう。
 空振り三振はOKだが、見逃し三振は許されない。



  
posted by 平野喜久 at 08:48| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | リスクマネジメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月01日

1人1票ではない選挙制度

 ただいま参議院選挙期間中。
 ここで、選挙制度について考えてみる。
 日本の選挙は、1人1票が原則となっている。
 私たちは、これが当たり前と思っているが、果たして1人1票が民主主義の唯一の基本原則なのだろうか。
 昔のように、納税額や性別で選挙権が制限されていた時代に比べれば、現在の1人1票の選挙制度は、格段に進歩したといえるが、これは、民主主義の到達地点ではない。
 より民意を正確に結果に反映させるにはどういう制度がいいのか。
 1人1票ではない選挙制度を考えてみよう。

1.定数と同じ人数を選べるようにする
 例えば、今回の参院選、東京選挙区では、定数6に対して31人が立候補している。
 この場合は、有権者は、31人の中から6人を選んで投票できるようにする。
 これで、当選者6人の構成バランスのあるべき姿を有権者が決められるようになる。
 31人の中から、たった1人を選ぶのは非常に難しい。
 一人ひとりの政見を比較検討して選ぶよりも、見た目の印象とか知名度で1人決めてしまえば、それ以上有権者が考える余地はなくなってしまう。
 ところが、定数と同じ人数を選べるとなると話は違う。
 6人の構成バランスを考えなくてはならなくなる。
 6人全員を保守系の候補者で選ぶ人がいるかもしれない。
 中には、2人を与党、2人を野党、2人を無所属で、バランスよく選ぶ人もいるかもしれない。
 その組み合わせは自由だ。

2.各候補者の評点投票にする
 有権者が候補者の中から1人を選ぶのではなく、すべての候補者に評点をつけて投票する制度。
 例えば、A候補は、政策も人柄も共感できる人物ということであれば、評点5を投票する。
 B候補は、人柄は好感が持てるが、政策が望ましくないと判断すれば、評点3を投票。
 C候補は、共感できるところが何もなく、政治家になってほしくないと判断すれば、評点マイナス5となる。
 その人物をよく知らないので、評価できない場合は、空欄で投票する。
 マークシート方式であれば、投票も集計も簡単だ。
 こうなると、有権者はすべての候補者を真剣に検討しなければならなくなるし、立候補者も、単に名前を連呼しているだけでは当選できなくなる。
 また、従来なら知名度が高ければそれだけで当選確実であったが、この方式では、有権者からマイナス評価が高いと当選圏内を外れてしまう。
 知名度の高い人ほど、強烈なファン層がある一方、極端に毛嫌いする人も多い。
 だから、知名度やパフォーマンスだけで当選しようという戦略は使えなくなる。
 アメリカの大統領選が、この方式で行われていたとすると、ヒラリー氏もトランプ氏も最終候補に残っていないだろう。

 ほかにも様々な選挙制度が考えられる。
 それらは、次回以降に。





 
 
posted by 平野喜久 at 10:55| 愛知 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする