2020年03月23日

K-1の開催強行:主催者のために中止命令すべきだった

 キックボクシング団体K-1のビッグイベント「ケイズフェスタ3」が22日、さいたまスーパーアリーナで開催された。
 開催前から、政府や県知事からは主催者側に自粛要請が繰り返されていたが、開催強行に至った。
 当日の観客は予定よりも少なかったが、それでも6500人もの人が集まった。
 主催者は、入場時に観客全員に住所、氏名、連絡先を書かせていた。
 このイベントは、クラシックコンサートのようなおとなしい催し物とは違って、大勢の観客が密集し、熱狂したファンが大声を上げながら応援するという。
 「閉鎖空間」「ヒトの密集」「大声」という感染拡大の条件をすべて網羅しているようなイベントだ。
 タイでは、この格闘技の試合開催が感染拡大の要因とされ、深刻な事態へとつながっているらしい。
 
 主催者側には、このイベントを中止できない事情があった。
 このイベントを主催者判断で中止したらどうなるか。
 主催者の自己都合の中止と同じ扱いとなり、チケットの払い戻しに応じることになる。
 ここで巨大な損失が発生し、たちまち運営会社は資金繰りに行き詰まる。

 逆に、開催を強行したらどうなるか。
 チケットの売り上げはそのまま収入になる。
 当日、自己判断で来ない観客もいるだろう。
 しかし、主催者に払い戻しの義務はない。
 当初の売上と利益を確保することができる。
 もちろん、このイベントをきっかけに感染拡大のリスクがある。
 だが、その責任を主催者が負うことはない。
 もしも、参加者の中で、感染拡大が認められた時には、損害賠償責任を負うような話が確定しているのであれば、主催者はそのリスクを重視する。
 ところが、そんな規定はどこにもない。
 このイベントが後の感染拡大のきっかけになったということが分かった時に、社会的な非難を受けることになるだろう。
 しかし、感染拡大が必ず起きると確定しているわけでもないし、感染拡大が起きたとしてもそれがこのイベントが原因だということを立証するのは難しい。
 立証できたとしても、かなり時間がたった後だし、それで主催者にどこまでの責任があるのかは不明だ。

 いま中止したら、直ちに莫大な資金流出で資金ショートを起こすのが確実。
 一方、中止しなかったときの損失は決まった話ではない。
 これでは、主催者側に中止しようというインセンティブが働かないのは当たり前だ。

 この問題の本質は、政府や県にイベント中止を命じる権限がないことだ。
 県の判断でイベント中止を命じたら、主催者は中止にせざるを得ない。
 そうなれば、主催者は損失が出たとしても、保険適用で対応可能だ。
 チケットの払い戻しも、主催者の責任は免除される。
 場合によっては、保険対応で払い戻しに応じることもできる。
 
 非常事態宣言を発して県に強制力を持たせる意味はここにある。
 非常事態宣言は、国や県が権力で人権を抑圧するかのようなイメージだけで語る人がいるが、実態は違う。
 このようなイベント主催者を守ることにもなるのだ。
 現状では、国や県に強制力がないがために、「要請」という形でお願いすることしかできない。
 だから、体力の弱い主催者は、簡単に自粛することができなくなってしまうのだ。
 それで、無理やりイベントを開催し、観客を感染リスクにさらすことになってしまう。
 観客の方も、感染リスクが怖いが、イベントが開催される以上、勝手なキャンセルで払い戻しはしてもらえないので、もったいないから行こうということになる。
 現状でリスクを負っているのは、国でも県でも主催者でもない。
 一般の観客にリスクを押し付けていることになってしまっているのだ。




posted by 平野喜久 at 14:58| 愛知 ☀| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

K-1の開催強行:主催者のために中止命令すべきだった

 キックボクシング団体K-1のビッグイベント「ケイズフェスタ3」が22日、さいたまスーパーアリーナで開催された。
 開催前から、政府や県知事からは主催者側に自粛要請が繰り返されていたが、開催強行に至った。
 当日の観客は予定よりも少なかったが、それでも6500人もの人が集まった。
 主催者は、入場時に観客全員に住所、氏名、連絡先を書かせていた。
 このイベントは、クラシックコンサートのようなおとなしい催し物とは違って、大勢の観客が密集し、熱狂したファンが大声を上げながら応援するという。
 「閉鎖空間」「ヒトの密集」「大声」という感染拡大の条件をすべて網羅しているようなイベントだ。
 タイでは、この格闘技の試合開催が感染拡大の要因とされ、深刻な事態へとつながっているらしい。
 
 主催者側には、このイベントを中止できない事情があった。
 このイベントを主催者判断で中止したらどうなるか。
 主催者の自己都合の中止と同じ扱いとなり、チケットの払い戻しに応じることになる。
 ここで巨大な損失が発生し、たちまち運営会社は資金繰りに行き詰まる。

 逆に、開催を強行したらどうなるか。
 チケットの売り上げはそのまま収入になる。
 当日、自己判断で来ない観客もいるだろう。
 しかし、主催者に払い戻しの義務はない。
 当初の売上と利益を確保することができる。
 もちろん、このイベントをきっかけに感染拡大のリスクがある。
 だが、その責任を主催者が負うことはない。
 もしも、参加者の中で、感染拡大が認められた時には、損害賠償責任を負うような話が確定しているのであれば、主催者はそのリスクを重視する。
 ところが、そんな規定はどこにもない。
 このイベントが後の感染拡大のきっかけになったということが分かった時に、社会的な非難を受けることになるだろう。
 しかし、感染拡大が必ず起きると確定しているわけでもないし、感染拡大が起きたとしてもそれがこのイベントが原因だということを立証するのは難しい。
 立証できたとしても、かなり時間がたった後だし、それで主催者にどこまでの責任があるのかは不明だ。

 いま中止したら、直ちに莫大な資金流出で資金ショートを起こすのが確実。
 一方、中止しなかったときの損失は決まった話ではない。
 これでは、主催者側に中止しようというインセンティブが働かないのは当たり前だ。

 この問題の本質は、政府や県にイベント中止を命じる権限がないことだ。
 県の判断でイベント中止を命じたら、主催者は中止にせざるを得ない。
 そうなれば、主催者は損失が出たとしても、保険適用で対応可能だ。
 チケットの払い戻しも、主催者の責任は免除される。
 場合によっては、保険対応で払い戻しに応じることもできる。
 
 非常事態宣言を発して県に強制力を持たせる意味はここにある。
 非常事態宣言は、国や県が権力で人権を抑圧するかのようなイメージだけで語る人がいるが、実態は違う。
 このようなイベント主催者を守ることにもなるのだ。
 現状では、国や県に強制力がないがために、「要請」という形でお願いすることしかできない。
 だから、体力の弱い主催者は、簡単に自粛することができなくなってしまうのだ。
 それで、無理やりイベントを開催し、観客を感染リスクにさらすことになってしまう。
 観客の方も、感染リスクが怖いが、イベントが開催される以上、勝手なキャンセルで払い戻しはしてもらえないので、もったいないから行こうということになる。
 現状でリスクを負っているのは、国でも県でも主催者でもない。
 一般の観客にリスクを押し付けていることになってしまっているのだ。


posted by 平野喜久 at 14:57| 愛知 ☀| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月14日

アメリカ:国家非常事態宣言

 トランプ米大統領は13日、新型コロナウイルスへの対応で国家非常事態を宣言。
 「状況は悪化する可能性がある。今後8週間が重大な局面となる」
 「連邦政府の全権を解き放つために、非常事態を宣言する」
 「新型コロナ対応に向け最大500億ドルの拠出に道を開く」

 ここまで、アメリカ大統領は楽観的な姿勢を見せていたが、国内感染が広がる中、無策を続けているわけにいかず、一気に非常態勢にかじを切った。
 これを受けて、株価は一気に上昇に転じたという。
 実にアメリカらしい。
 必要となれば大胆に行動を起こし、それを国民が評価をする。
 注目すべきは、「今後8週間が重大な局面」と宣言したことだ。
 約2か月は影響が及ぶと表明したことになる。
 これは、おそらく大統領個人の勝手な感想ではなく、専門家の知見が入っている。
 というのは、新型インフルエンザの場合は、感染拡大期の影響は8週間に及ぶのが1つの基準と考えられているからだ。

 日本では、「1〜2週間」「10日間」と、政府が警戒を呼び掛けるのにも細かく刻んでいる。
 いきなり8週間と言うと、国民の受ける衝撃が大きすぎるので、少しずつ瀬踏みをしている感じだ。
 だが、この新型コロナの影響は、長期に及ぶことを覚悟すべきだろう。
 政府は、その長期的な見通しをある程度提示してもいいのではないか。
 
 大阪府は13日、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため自粛してきた府主催イベントについて、21日から順次再開する方針を決めた。
 今回のコロナウィルスは、どのような環境で感染するのかが分かってきたからだ。
 その条件さえ回避すれば、イベント開催はできるとの判断だ。
 府としては思い切った決断だが、これ以上、世の中の活動を停止してしまうことの弊害を最小限にとどめようとする現実的な対応だ。
 影響が長期に及ぶことを前提に対応策を検討しているのが分かる。

 大阪府は、別途、感染拡大が進むことを想定して、感染者の症状別の対応スキームを決定した。
 国の方針が決まるのを待つことなく、先手先手の対策を講じている。
 いま、日本のフェースは感染拡大期に入ってきており、ここからは、各都道府県単位の対策に委ねられる。
 国の方針が決まってから、「唐突すぎる」と文句を垂れているような知事は、有事のリーダーとして失格だ。
 今後は、知事の感度の違いで、対応に違いが出てきそうだ。

 
posted by 平野喜久 at 10:34| 愛知 ☔| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月12日

イタリアの感染爆発を世界の教訓にできないか

 イタリアの感染爆発が激しい。
 感染者は、新たに2313人感染で計で12462人に 死亡者も196人増え計827人に。
 重症者は計1028人。
 致死率は6.6%になる。

 イタリアで何が起きているのか不明だ。
 既に医療崩壊が起きているように見える。
 医療現場の対応が間に合わず、重症患者の手当てができないまま死に至らしめてしまっているのかもしれない。
 そうなると、新型コロナの肺炎患者だけではなく、その他の病気による緊急患者の対応もまともにできずに、死亡させてしまっているおそれがある。
 これは、新型コロナの死者にカウントされておらず、実態は表面化しない。

 イタリアでの感染爆発は、いろんな原因が指摘されている。
 PCR検査をやりすぎたために、多くの人が医療機関に殺到し、そこで感染拡大が起きた。
 クルーズ船の寄港を許し、隔離措置をせずに乗客を下船させた。
 ハグやキスなど他人との接触の多い生活文化。
 もともと、衛生観念が低い国民性。
 ウィルスが変異している。
 いずれも、勝手な憶測にすぎず、真因は不明だ。
 
 WHOはこういう現地こそ調査して、世界に警告を発する必要があるのではないか。
 
 
posted by 平野喜久 at 10:09| 愛知 ☀| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

WHOの存在意義がない

 世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長は11日、記者会見で、新型コロナウイルス感染症について「パンデミック(世界的大流行)だ」と述べた。
 今さらとの感じが強い。
 既に世界の報道で感染が世界的に広がっていることはみんなが知っており、それを後追いでWHOが確認しているだけだ。

 今回のWHOの対応については、不信感が広がっている。
 本来なら、各国の対応は、WHOの見解を判断基準に進められるはずが、そうなっていなかった。
 思い切った提言や、先手先手の注意喚起などはまったくない。
 むしろ、初めのころは、世界が騒ぎすぎないように控えめなメッセージを発しし続けていた。
 特に、今回の発祥地、中国に対する気遣いは甚だしく、中国のイメージ低下につながるようなコメントは極力避けていたように見えた。
 むしろ、中国はよく対応していると高い評価を与えていたぐらいだ。
 逆に、中国以外の国の状況については、容赦なく感染拡大の懸念を表明するなど、中国の問題から関心をそらせるような言動ばかりが目立つ。
 一時は、日本も感染拡大の懸念対象国の中に含まれていた。
 そのせいで、日本からの入国を拒否する国が出始めた。
 中国以外の国のイメージ低下には、ほとんど無頓着であることが分かる。

 今回のパンデミック表明も、中国での感染拡大が収まってきたのを待っていたように見える。
 いまや問題の中心は中国以外の国々に移っており、パンデミックは世界の問題と堂々と言えるようになったということだろう。

 本来は、WHOは、国の利害を超えた客観的な立場で、科学的な根拠に基づいて、いち早く世界に向けて情報発信を行ない、各国に同じ方向で行動を促す機関でなくてはならないはず。
 ところが、WHOはその信頼を失い、国の判断のよりどころにはならなくなっている。
 単に、各国の報道を見ながらコメントを発しているだけの、お茶の間の評論家レベルに堕している。
 
 日本も含め、各国の初動に遅れが見られたのは、このWHOの責任が大きい。
 
posted by 平野喜久 at 09:44| 愛知 ☀| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月08日

後知恵の講釈が多すぎる

 5日、安倍総理は、新型コロナウイルス感染症対策本部会合で、感染のさらなる拡大を阻止するため、中国、韓国からの入国者に指定場所で2週間待機し、国内の公共交通機関を使わないことを要請すると表明した。
 中国韓国からの入国規制をかけることとなった。
 この措置について、またも批判の声があがっている。
 「遅すぎる」「もはや水際対策は失敗しており、いまさら入国規制は意味がない」「いきなり韓国全土を対象にする根拠がない」
 
 遅すぎるというのであれば、どの段階で行なうのが適切だったのか。
 武漢からの入国規制をしたときに、中国全土に範囲を広げておくべきだったという意見がある。
 確かに、理想としてはその通りだ。
 もっと言えば、武漢で正体不明の感染症が広がっているらしいという情報を受けた段階で、ただちに鎖国するのが最善だった。
 そうすれば、もっと効果はあったはず。
 しかし、いきなりそんなことをすれば、ヒトやモノの行き来がストップしてしまい、経済活動が停止する。
 防疫に成功したとしても、他のダメージが大きすぎる。
 その影響は、海外にも及び、いきなりの鎖国措置は、独善的として国際的な非難を浴びることになっただろう。
 中国からの入国規制に限定したとしても、過剰反応として中国から非難されたに違いない。
 日本国内でも、中国人への差別につながりかねないと批判の声が上がっただろう。
 それで、中国が武漢閉鎖を決めたときに、最小限の入国規制として、武漢からの入国を阻止したのだ。

 今回の新型コロナに対する日本政府の一連の対応について、批判の声を上げたがる人が目立つ。
 どんな対策でも、どこかに批判の糸口は見つかるので、難癖をつけるのは簡単だ。
 特に、結果が分かってからなら、神の視点に立って何でも言える。
 自分だけは、初めからすべてを見通せていたかのように、「ああすべきだった」「こうすべきではなかった」と、ものを言うことができる。
 この神の視点に立った批判は、実に気分がいい。
 答えが明らかなので、悩む必要はなく、思いっきり批判することができるからだ。
 だが、これは後知恵の講釈というものだ。

 更に問題なのは、まだ、最終的な結果が出ていないので、後知恵にもなっていないということだ。
 「クルーズ船対応は歴史的な大失敗」と言う人がいるが、今の時点で何をもってそう評価しているのか分からない。
 感染者や死亡者が出たことをもって失敗と言っているのなら、評価の観点が違う。
 その対策が成功か失敗かは、その対策を行なったケースと行わなかったケースを比較することで、初めて分かる。
 それは、海外での対応の仕方と比較することで初めて検証できる。
 他の方法を取っていたら、もっと犠牲が大きかったかもしれない。
 その検証は、すべてが終わった時にじっくり行うべきで、今の段階で、あれこれ論評している場合ではない。

 もちろん、ここまでの対応の中で、新たに得られた知見があるので、それは、今からの対策にいかしていかなくてはいけないのは当然だ。
 
 タレントコメンテーターが素人の思い付きで批判するのは、番組上の演出として理解できるが、不可解なのが専門家としてマスコミに登場する人まで政府批判を繰り返している。
 まるで、批判をしなければ専門家としての権威を保てないとでも思っているようにさえ見える。
 専門家と言っても、いろんな分野に及ぶ。
 疫学の研究者、医科大学の教授、感染症の医者、医療ジャーナリストなど。
 それぞれの立場でものを言うので、政府批判でも人によって言うことが違ったりする。
 感染症対策は、単なる健康医療の話ではなく、国家の危機管理の問題だ。
 政府が考慮すべきは、多岐に及ぶ。
 当然、疫学や医療の専門家の意見は受け入れるが、それだけが判断材料になることはありえない。
 今回の中国韓国からの入国規制の措置を、すべて疫学医学の観点から評価しようとすることには無理がある。

 気になるのは、マスコミに登場するコメンテータに、危機管理の専門家がいないことだ。
 国家の危機管理の問題を疫学の研究者に語らせるのは、滑稽な見世物にしかなっていない。
 これは、繊維の研究者に、洋服のファッションアドバイスを求めるようなものだ。

 もう1つ気になるのは、政府のスポークスマンの中に、危機管理の視点から、国民に分かりやすく情報発信できる人材が見当たらないことだ。
 いま、日本はどういう状況に置かれていて、いま何をしようとしているのか、これがうまく伝わっていない。
 厚労大臣がその役割を担っているが、残念ながら、批判をかわすための言い訳めいた説明ばかりが目立つ。



 
posted by 平野喜久 at 09:25| 愛知 ☔| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月04日

新型肺炎:いまがなぜ一番大事なのか

 専門家会議が「この1〜2週間が瀬戸際だ」と声明を発してから1週間が経過した。
 小中高校の一斉休校が始まり、各種イベントの自粛、縮小が実行されるようになった。
 動きは、スポーツの無観客試合、集会の中止、美術館などの施設の閉鎖など、広範囲に及んでいる。
 街中に人出が少なくなってきた。
 レストランも混んでいない。
 観光地は明らかに人が減った。
 交通機関も心なしか混雑が緩和されているように感じる。

 全校一斉休校の措置は、「唐突すぎる」「科学的根拠がない」「現場の混乱を無視している」と批判が噴出したが、どうやら、いい効果が出ているようだ。
 もう1週間様子を見れば、その傾向ははっきりわかるようになるのではないだろうか。

 さて、2週間経過した時に、どうするのか。
 ただちに自粛解除で、通常通りの活動に戻れるのか。
 たぶん、そうならない。
 国内の感染拡大は緩やかながら進んでおり、いまよりも、感染者や死亡者は増えているだろう。
 感染者が増えていることをもって、「全校休校しても意味がなかった」などと批判の声が出ることを心配する。
 新型感染症対策のポイントは、感染拡大のスピードを緩やかにし、蔓延期のピークを低くすることにある。
 対策の成功は、感染拡大しないことではないし、死者が出ないことでもない。
 今回の対応の仕方が正しかったのか間違いだったのかの検証は、すべてが終わってからすべきであり、事態の進行中に良しあしを論じていても意味がない。
 むしろ、政府批判のための言動は、対策の効果を妨げかねず、害悪でしかない。

 この後、日本でも感染拡大は続く。
 いずれピークがやってくる。
 そのことは覚悟して準備していく必要がある。
 分からないのは、いつピークが来るのか、その時の山の高さはどの程度になっているのか、ということだ。
 分からないということは、逆に言うと、いまの対応次第で、十分変わり得るということでもある。
 だから、「この1〜2週間が瀬戸際だ」ということなのだ。

 問題は、3月の後半からどうするのかということだ。
 まだまだ感染拡大は継続している。 
 いきなり警戒を解くわけにはいかない。
 では、いまの警戒態勢をそのまま更に2週間延長するのか。
 すると、活動自粛に伴う弊害が看過できなくなる。
 たぶん、警戒は怠らないようにしながら、日常の活動は極力維持するという方向に切り替えていくことになるだろう。
 そのうち、有効な治療方法が開発され、医療体制も整い、重症患者の受け入れ態勢ができあがってくる。
 そうなれば、社会の不安感が一気に解消に向かう。
 そのうち、通常の感染症と同じように日常の中に紛れていき、話題が遠のいていく。
 WHOの終息宣言が出るのは1〜2年後になるだろうが、日本での脅威は早々になくなっていくかもしれない。

 その前に、私たちは必ずやってくるピークを乗り越えなければならない。
 少しでもピークを遅らせ、少しでも高さを低くするために、いまが一番大事な時期だということをあらためて認識する必要がある。

 
posted by 平野喜久 at 21:10| 愛知 ☔| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月01日

企業のパンデミック対策

 我が国の新型肺炎リスクは、いよいよ感染拡大期の入り口までやってきた。
 今後、どのようなカーブで山を登っていくかは、1〜2週間の国民の対応次第だ。
 3月中の全校休校が決まり、各種イベントも次々と中止、公共施設も閉鎖が決まってきた。
 国を挙げた非常態勢に切り替わりつつある。

 新型肺炎は、企業にとっても重大なリスクだ。
 当然ながら、BCPの対象となる。
 今後は、企業も態勢を切り替えていく必要がある。
 当面、企業が最優先で考えなくてはいけないのが次の2点だ。

・従業員が感染しないこと
・ウィルスを職場に持ち込ませないこと

 今回のウィルスは毒性はそれほど大きくないが、感染力が強い。
 免疫を持っている人が誰もいないので、ウィルスが職場に持ち込まれると、たちまち集団感染を起こす。
 すると、その職場はしばらく業務停止に追い込まれる恐れがある。
 このウィルスは厄介な特徴があって、発症までの時間が長く、発症後の進行も遅い。
 通常のインフルエンザであれば、1週間以内には自然に回復する。
 ところが、新型肺炎は、2〜3週間もかかって病状が進行していくケースが見られる。
 中には、症状が軽快して検査が陰性になったのにも関わらず、その後に症状がぶり返し、陽性に変わるという事例も報告されている。 
 致死率が季節性インフルと変わらないからといって、油断していいウィルスではない。
posted by 平野喜久 at 11:19| 愛知 ☁| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

危機意識を共有しよう

 総理の全国一斉休校の要請について、マスコミでは批判的な論調が多く取り上げられている。
 「唐突すぎる」「科学的根拠がない」「具体的対応は現場に丸投げ」
 だが、新型感染症対策とは、そもそもこういうものなのであり、そのことをあげつらって批判しても意味がない。
 そもそも、今回の措置が正しいのか間違っているのかを評価しようとすること自体が間違っている。
 正否は、すべてが終わってからでないと評価できないからだ。
 
 それよりも問題なのは、国民の間で危機意識がバラバラなことだ。
 ある人は深刻な事態だと捉えているし、ある人は大した事態ではないと捉えている。
 この両者が話し合って対策を決めようとしても、結論が出ない。
 前提となる認識が違うので、そこから話がかみ合わないのだ。
 延々と議論を繰り返すばかりで、時間を浪費することになる。
 今回の休校要請は、現在が重大局面にあることを全国民に認識させるのに十分なインパクトがあった。
 国民のベクトルが同じ方向を向くようになった。
 これだけでも、総理の決断には意味があったと言える。 

 知事や市長の中には、今回の措置に対して、批判的なコメントを発している人がいる。
 思いにもよらないことを突き付けられて驚いている様子が見える。
 自らの危機意識の欠如を披露しているようなものだ。
 危機のリーダーには、批評論評している暇はない。
 ただちに行動を起こすべき時だ。
 
 
 
 
posted by 平野喜久 at 10:54| 愛知 ☁| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする