コンプライアンス、内部統制という専門用語も当たり前に聞かれるようになって来た。
しかし、日本人に対して、アメリカ流の概念をそのまま押し付けても、まったく響かない。
事業経営を展開するにおいて、その国特有のリスクが存在する。
自爆テロのリスク。
政権転覆のリスク。
民衆暴動発生のリスク。
で、日本のカントリーリスクは、圧倒的に地震リスクである。
カントリーリスクとしては、世界有数のリスクと言っていい。
だが、そこで事業を営む経営者は、何事もないかのように平静だ。
地震リスクの存在は気になるものの、具体的な行動に結びついていないのが実情だ。
これは、どうしたことだろうか。
私が、中小企業向けに、リスクマネジメントやBCPのお手伝いをさせていただいているときに、ひしひしと感じることである。
難しい理論や知識より、もっと前段階で、リスクに対する感性レベルで、何か問題があるような気がしてならない。
もしかしたら、リスクに対する感度の鈍さは、日本人の特性なのではないか。
日本文化に遺伝的に刻み込まれた国民性なのではないか。
更に言えば、リスクを感じ取る感覚自体が存在していないのではないかとさえ思う。
だから、リスクマネジメントを理屈では理解できても、心に響かないのだ。
なぜ、日本人はリスク感度が鈍いのか。
それは、農耕民族の特性だろう。
村落共同体においては、自分ひとりだけがリスクにさらされるということはありえない。
豊作になれば、村中が豊作だし、飢饉になれば、村中が飢饉になる。
村中が豊作なのに、自分の田畑だけが不作になるということはありえない。
もし万一、自分の田畑だけが不作になってしまうようなことがあったとしても、共同体の中でみんなが助けてくれるだろうという暗黙の了解がある。
その安心感は大きい。
もちろん、村中が飢饉になるのは大変な事態だが、自分ひとりだけの問題ではないという点で、安心感があるのだ。
地震リスクも、まさにこれと同じなのだ。
東海地震が発生したとする。
地域一帯が被災する。
自社だけが被災するわけではない。
もちろん、地域一帯が壊滅状態に陥るのは大変な事態だが、そこは、自社だけではないという安心感がある。
「みんな一緒」
「みんなだめになるのに、うちだけが何とかしようとしても無駄」
という妙な共同体意識があるのかもしれない。
このような村落共同体では、リスク感度の高い者は、排除されがちだ。
不吉なことを言う。和を乱す。人々を不安にさせる。
当然、誰もリスクについて口にすることはなくなる。
そして、考えなくなる。
意識すらしなくなる。
リスクについては、見ず、言わず、考えず、これが共同体の中で、もっとも平穏に暮らすすべなのだ。
この日本人の特性は、いざ問題が発生したときの対応にも表れる。
天の思し召し、運が悪かった、で済ましてしまう。
事件や事故がおきた原因を探り、再発防止に取り組むという発想はない。
原因究明を進めると、個人攻撃になりかねず、共同体の和を乱すからだ。
結果として、失敗の教訓は生かされず、天に祈りながら再び同じ失敗を引き起こすことになる。
旧日本軍は個別の戦闘において、さまざまな失敗を繰り返した。
組織として、リスクマネジメントができておらず、失敗から教訓を学び取るという習性がなかったためだ。
戦史を紐解いてみると、信じられないような愚策によって、失敗を繰り返していることが分かり、愕然とする。
日本の敗戦の原因の1つは、明らかにリスク感覚の欠如にある。
そして、これは、旧日本軍の愚かさだけにとどまらない。
日本人の特性だとすれば、この欠点は、戦後の行政組織、民間組織においても、まったく同じなのである。
単にリスクを認識する知能がないだけ
欧米だって農耕大国だって知らないの?
それに、農耕民族であるというのと、現在、農業大国であるかどうかは無関係です。