久しぶりに読み応えのある電子書籍を読了。
添田孝史著『原発と大津波 警告を葬った人々』(岩波新書)
東日本大震災によって引き起こされた原発事故。
1000年に1度の未曽有の大災害に襲われ、すべての被害が想定外と言われた。
福島原発の被害も、津波想定が低すぎたために相応の備えができておらず、電源喪失を招いてしまった。
稀に貞観地震の再来を警告する地震学者もいたが、多く専門家の支持を受けて定説に至っておらず、今回の事故はやむを得ぬ事態だった、というのがこれまでの印象だった。
ところが、この本を読んでみると印象は全く違う。
貞観地震の脅威は、いたるところで指摘され続けていたという印象だ。
福島でも十数メートル級の津波の恐れあり、という情報は、様々な報告書の形ではっきり指摘されていた。
ところが、それを東電や保安院らは、いろいろと難癖をつけてそれらの情報を排除し続けた。
そして、自分らに都合のいい予測数値を重要視して、現状に問題がないことの根拠とした。
この様子が細かく丁寧に描かれている。
反原発の本は、ややもすると、当事者の非をあげつらい、一方的に糾弾するのが通例だ。
だが、この本は違う。
事実を丹念に積み上げ、自分自身もメディアに携わる立場でありながら、同じようにリスクに目をつぶってしまっていたという自戒を込めて語られている。
最後に、「自分が東電や保安院の責任者だったら、どうしただろうか」と自らに問うている。
もしかしたら、同じ過ちを犯していたかもしれない、と述べているのが印象的だ。
非常に正直で謙虚な姿勢に好感が持てる。
私も同じ思いに駆られた。
なぜ、原発関係者らは、せっかく貞観地震レベルの津波予想があるにもかかわらず、対策を怠り続けたのか。
それは、対策を行うより、無視したほうが簡単だからだ。
原子炉の寿命が残り10年20年というところなのに、1000年に1度の津波のために、土地のかさ上げや防潮堤の建設を実行するのか。
対策工事中の稼働はどうするのだ。
それだけのコスト負担を株主にどのように納得させるのだ。
その津波リスクの存在を地域住民にどのように説明するのだ。
考えただけでも気が遠くなる。
いきおい、現状で問題ないことにしようという方に向かいたくなる。
自分が責任者である数年間だけ何事もなければ、無事に職務をやり過ごせる。
せっかく苦労して徹底した対策を施したとしても、何事も起きなければ、その成果が認められることはない。
余計なことに時間とコストをかけただけという評価にしかならない。
それよりも、すぐに効果が表れ実績が認められることに集中した方が評価が高くなる。
このような状態で、自分の数年間を1000年に一度の津波対策のために費やそうとするはずがない。
誰が担当者でも、同じ対応になってしまったのではないだろうか。
原発事故が発生した時、現場の陣頭指揮を執った吉田所長。
今では、彼は英雄扱いだが、この本を読むと、地震発生前は、貞観地震のリスクを無視する側にいたらしい。
彼も東電の一社員であったのだ。
著者は、このことをもって吉田氏を非難しているわけではない。
むしろ、同情的な眼差しを向けている。
原発事故から教訓を得るとしたら、神の視点で当事者を断罪することではありえない。
このような地に足のついた情報発掘は貴重だ。
この本は、当事者の立場に立って「自分だったらどう判断し、行動しただろうか」という視点で読むことをお薦めしたい。
2016年02月26日
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