2017年05月14日

批判のための批判はいらない:野田幹事長の街頭演説

 民進党の野田幹事長の街頭演説。
 安倍政権への批判を繰り返していたが、その内容は口先だけの批判にとどまっているという印象が強い。

 安倍首相が憲法改正を2020年までにと考えている件については、
 「全く関係のないことまで2020年に絡めるおかしな発言が出てきた」
 「何故憲法改正を2020年までとするのか。全く関係ない」と批判。
 「トップダウンで方向性を決める問題ではない」
 「日本は大統領の国ではない」
 「お門違いの発言だ」などと厳しく指摘。

 さらに、テロ等準備罪については、次のように批判していた。
「2020年に向けて新たにテロ対策をやらなければいけないくらい安全に不安のある国だったんですか?そうじゃない筈であります」

 安倍政権のやろうとすることを批判することに精一杯で、その主張に無理やり感が強い。
 民進党の中でも野田氏だけは、現実的な判断ができる政治家だと思われたが、その彼にして、この程度の主張しかできないとは驚いた。
 立場上、こう主張せざるを得ないのだろう。
 「提案型の野党になる」というのが公約だったはずだが、その様子はなく、安倍政権に難癖をつけることに終始している印象だ。

 テロ等準備罪に対する批判として、「日本はそんなに危険な国なのか」という批判は、リスクから目をそらそうとする悪魔の言説だ。
 リスクに目を向けなければ、問題が存在しないことになる。
 問題が存在しなければ、対策を講じる必要はない。
 対策を講じる必要がなければ、テロ等準備罪は不要だ。
 前提となるリスクを否定することで、政府の対策を否定するというのは、ただ国民の目をそらそうとしているだけで、何のリスク対策になっていない。
 現状ではテロ等準備罪が必要ないのであれば、いったいどうなったら必要になるのか、という判断基準が必要になる。
 提案型の野党なら、その基準が示せるはずだが、そんな基準は示せないだろう。
 政府を批判するために理屈をつけているだけだからだ。
 おそらく、テロ等準備罪が必要となる判断基準を明確に示せる人はいない。
 ここまでだったら必要ないが、これを超えたら必要になる、などと言えれば簡単だが、そんな基準はどこにも存在しない。
 どこにも存在しないものを前提にした議論に現実性はまったくない。
 民進党(旧民主党)は、何のために政権を経験したのか。
 せっかくの経験がまったく生かされていないではないか。
 人は失敗を通して多くを学び成長する。
 だが、民進党は民主党から党名を変え、悪いイメージを断とうとしたが、同時に、貴重な経験知も断ち切ってしまったようだ。

 本日のサンデーモーニング。
 トランプ政権批判と、安倍政権批判に終始し、北朝鮮の脅威は1つも語られることがなかった。
 番組が始まる僅か3時間前に北朝鮮がミサイルを発射し、30分前には官房長官が記者会見をしていたというのにだ。
 北朝鮮の脅威を取り上げると、安倍政権を批判しにくくなることを嫌がったのだろう。
 だが、ミサイル発射は、すでにネット上で情報が出回っており、視聴者はとっくに知っている。
 コメンテーター全員が申し合わせたように、北朝鮮の脅威を無視して安倍批判を繰り返す様子が滑稽でさえあった。
 コメンテーターの1人は、こんなことを言っていた。
 「日本だけが北朝鮮と対話しようという姿勢を示さないのはおかしい」
 このコメンテーターもミサイル発射の情報は知っていたはずだ。
 それが、30分間も飛び続けるような新しいタイプのミサイルだったことも分かっていたはず。
 すべてを知ったうえで、平然とこんなコメントを発信できる神経は異様だ。



  
 
 
 
 
posted by 平野喜久 at 20:15| 愛知 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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