2018年08月05日

クロネコヤマト:過大請求

 宅配最大手のクロネコヤマトで不正が発覚。
 長年にわたって法人向け引っ越し代金を過大請求していた。
 4割ほどで過大請求があり、総額は16年5月から18年6月までで17億円に上る。
 5年前にさかのぼると31億円に膨らむ。
 実際には600キロ程度の荷物を5トンと見積もり、約10倍に当たる17万円を請求した例もあったらしい。
 また、実際には行われていないサービスの料金が付加されていたこともあったという。

 不正があったのは、法人向けの引っ越し代金だった。
 社員の転勤に伴う引っ越し代金を企業が負担するケースで不正が行われやすい。
 引っ越しは単発で発生する需要であること、法人の場合、請求書のチェックが緩いことが、背景にある。
 単発の引っ越し業務であれば、総務の担当者レベルで発注し決裁される。
 アイミツなどという煩雑な手続きは行なわれないし、実際に転勤者の荷物がどれほどあるのかを総務が把握しているわけもない。
 支払いは事務的に処理されるだけで、見積や請求の中身まで細かいチェックは行われない。
 このチェックの穴に付け込んだような不正行為だった。

 これが個人の引っ越しであると、少しでも支払いを減らそうと請求書のチェックが厳しいので、ごまかしはきかない。
 また、法人向けでも、製品の入出荷のような定期的な運送業務の場合、コストダウンの圧力が強く、ごまかしは不可能。
 これらのチェックをすり抜ける唯一の業務が、単発の法人向け引っ越しサービスだったのだ。

 今回の不正の深刻なのは、11年に内部告発によって過大請求の事実を把握していたのに、問題を放置したまま同じことを繰り返していたことだ。
 更に、この不正は一部の営業所だけで行なわれていたものではなく、全国規模で同じことが起きていららしいことも問題の根深さをうかがわせる。
 一部の現場の人間が勝手なことをしていたというレベルではない。
 むしろ、現場の個人には代金の過大請求によって得られる利益はなく、不正に手を染める動機がない。
 組織的に不正が行われていたことが疑われる。
 
 客は、クロネコヤマトのブランドを信用して発注している。
 請求額をわざと過大に乗せてくるなど、夢にも思わない。
 その信用を裏切る行為であり、ブランドの棄損は深刻だ。
 
  
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2018年06月30日

西野監督は勇将ではないか:サッカーW杯

 サッカーワールドカップ、日本が決勝トーナメント進出を決めた。
 2大会ぶり3度目の決勝トーナメント進出だ。
 だが、この決勝トーナメント進出を決めた対ポーランド戦の戦い方が議論を呼んでいる。
 日本チームは、試合終盤で無意味なパス回しを繰り返し、明らかに時間稼ぎをしている姿が見られたからだ。
 この時点で日本チームは1点を失っており、このままでは負けてしまうのにもかかわらず、時間稼ぎをし始めた。
 この不可解な行動に場内からは激しいブーイングが起きた。
 結果として決勝トーナメント進出が決まったが、もろ手を挙げて喝采を叫ぶ雰囲気ではなく、後味の悪さを残した。

 この不思議な戦術は、西野監督の指示で行われたもので、そこには冷徹な計算と苦渋の賭けがあったようだ。
 59分の時点でポーランドがFKから先制し、日本は1点を失うことになった。
 この直後に、別会場のコロンビアサポーターにも日本の失点が伝わり、大歓声が上がっている。
 なんとしても失点を取り返さなければならない日本だが、ポーランドは守りを固くしてゴールに近づけない。
 そうしているうち、74分にコロンビアがCKから先制点を挙げた。
 ここから状況が一気に変わってくる。
 コロンビア先制の情報は日本側にも伝わった。
 コーチが西野監督に耳打ち。
 82分、西野監督は長谷部の投入を決め、その長谷部にコロンビアの状況を伝え「勝たなくてもいい。不用意なファウルを避けろ」と指示。
 長谷部はその意味を理解し、ピッチに入るや他の選手らに伝えていく。
 そこから日本の攻撃は鳴りを潜めた。
 そのあと、西野監督は長友にも指示を伝えていた。
 日本チームは自陣でボールを回しながら試合終了を迎える。

 日本が1点を失い、コロンビアが先制した時点で、直ちに戦術の変更をした西野監督。
 その戦術は見事に当たった。
 これほど迅速な意思決定ができたのは、事前にあらゆる状況を想定し、戦術パターンを研究し尽くしてきた結果だろう。
 この戦術は決して楽な選択ではなかった。
 残り時間がまだ10分以上あるなか、セネガルが追い付いていたら、直ちに日本の敗退が決まる。
 その時の日本のダメージは大きすぎる。
 時間稼ぎで無駄な時間を費やし、試合には負け、さらにGL敗退を招いたとなると、世間の風当たりは一層強くなる。
 全力を出し切って敗退した時以上のダメージだ。
 だが、その大きなリスクを承知で敢えて賭けに出たのは、そこには冷徹な計算があったのだろう。
 ここで無理して攻撃を仕掛け、守りを固めたポーランドにカウンター攻撃を受ければ、0−1が0−2になる恐れがあった。
 一方で、コロンビアは1点先行を死守するに違いない。
 ならば、日本が決勝トーナメントに進出するために最も優位な選択肢は何か。
 それは、このまま試合を終えることだった。
 ポーランドもこのまま終われば悲願の一勝を挙げることができるので、日本の時間稼ぎを無理に突き崩そうとはしてこないことも、この決断を後押しした。

 西野監督は、よくぞこの決断を行なったと思う。
 選手らも、監督の意思を理解し、会場の大ブーイングによく耐えた。
 この作戦は、批判を受けることが確実だった。
 決勝トーナメント進出が決まっても称賛されないかもしれない。
 まして、GL敗退が決まったら、西野監督の評価は地に落ちる。
 そのリスクを負っても、選手たちを決勝トーナメントに進める決断をした。
 今回の西野監督の瞬時の決断は、見事であったと称賛したい。

 監督の責務は、日本チームを決勝トーナメントに導くことであり、見事にその役割を果たした。
 開幕前まで、日本チームは酷評の嵐だった。
 「おっさんジャパン」「三戦全敗が見える」
 GL突破を予想する声はほとんど聞かれなかった。
 そのチームを決勝トーナメントに導いた功績は大きい。

 監督の責務は、選手らに「後先考えるな。とにかく全力で戦って来い」と指示することではない。
 これでは、戦時中、先の見えないままに特攻作戦を指示していた軍幹部と同じだ。
 あの時、命を惜しんで逃げかえってくるよりも、潔く戦って死ぬことが尊いとされた。
 今回の西野監督の采配に感情的に反発している人たちがいる。
「世界に恥をさらした」
「あんなサッカーは見たくなかった」
「こんなことなら、全力で戦って敗退した方がまし」 
 それは、あの特攻作戦を生み出した精神背景に通底するものがあるのではないか。
 かつて、なぜ日本は勝算のない対米戦に突入していったのか。
 なぜ敗戦濃厚の情勢でも終戦の決断ができなかったのか。
 その答えが、今回のW杯で見えた気がする。
 当時も、今回と同じような感情的な空気が支配していたのかと考えると納得できる。

 一般に、リーダーが決断を迫られるとき、積極的な決断よりも消極的な決断の方が遥かに勇気がいる。
 なぜなら、消極的な決断は、うまくいっても大して褒められないが、失敗したら強烈な非難を受けるからだ。
 一方、積極的な決断は、うまくいったら大絶賛され、失敗しても「仕方なかった」と免責となる。
 リーダー自身の保身だけ考えれば、積極策を選択した方がいい。

「もう戦わなくていい。なんとしても生き残れ」
 この指示を出せた西野監督は、稀代の勇将かもしれない。
 

 
 
 
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2018年06月19日

都市型災害の影響:大阪北部地震

 昨日、午前7時58分に起きた大阪北部地震。
 死者4名、負傷者300名。
 ブロック塀が倒壊したり、火災が発生したり、水道管が破断し道路が陥没したりという直接的な被害が見られた。
 震源近くでは断水や都市ガスの停止が起きており、しばらくは影響が続きそうだ。

 今回の地震で特に人々への影響が大きかったのは、交通機関が広域で全面運休したことだろう。
 朝8時という通勤時間帯であったこともあり、通勤途中で被災し、職場へも行けず、帰宅もできない人が駅周辺にあふれた。
 新幹線については、午後3時ごろに運行が再開したが、在来線はなかなか再開の見込みが立たなかった。
 いつ動き出すか分からないまま、駅周辺で待ち続ける人々。
 新幹線が再開したが、新大阪駅へのアクセスがすべて停止している。
 夕方には、梅田から新大阪まで徒歩で向かう人で長い行列ができた。

 都市で大地震に見舞われたときは、むやみに動き回るのではなく、いち早く宿泊場所を見つけるなど、落ち着ける場所を確保することが望ましい。
 人が多すぎるために、有効なルートが見つかったとしても、そこには多くの人が殺到し、常に群衆の中に身を置かなくてはならなくなるからだ。
 群衆の中に身を置くのはそれだけでリスクが大きい。
 ただ、今回の地震の場合、これほどまで長時間にわたり交通がストップするとはだれも思わなかった。
 確かに大きな揺れがあったが、目に見えるような被害がなかったからだ。
 緊急点検を行なった後、午前中には動き出すのではと思った人も多かったのではないか。
 ところが、この緊急点検に時間がかかった。
 再開の見込みが立たないまま、今か今かと待ち続けるうち、夜になってしまったというのが実態だろう。
 JRも、午後3時ごろからは午後5時に再開の見込みとのアナウンスをしていた。
 ところが、それが午後7時になり、すぐに午後10時と変更されていった。
 JRも再開の見通しを正確に把握できていなかったことが分かる。
 たぶん、何の情報のないまま待たされる乗客の不安やいらだちを紛らわせるためにも、情報を先走って出してしまったのだろう。
 はじめから、「運行再開は午後10時以降になる見込み」「本日中の運行再開はありません」とのアナウンスが出ていれば、人々は次の行動に移っていたかもしれない。
 だが、この判断は非常に難しい。
 JR側も、運行再開に全力を挙げており、これほど時間がかかるとは当初思っていなかったのに違いない。

 昨日は梅雨時でありながら、幸いにも天気は良かった。
 寒くも暑くもない。
 地震が起きたのが早朝なので、暗くなるまでに十分な時間がある。
 町は深刻な被害を受けていないので、途中でコンビニやレストランを利用しながら進むことができる。
 徒歩で移動することが可能だったのだ。 
 線路沿いに徒歩で歩き始め、運行再開した時点で最寄駅から乗車するという方法をとることができただろう。
 20q程度の距離であれば、徒歩移動を検討すべきだ。
 
 


 
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2018年06月18日

大阪府で震度6弱

 本日、午前7時58分、大阪府北部で強い地震が発生した。
 震源は茨木市、深さ13m、マグニチュード6.1
 最大震度は6弱。
 有馬高槻断層帯の一部が破壊したらしい。
 この地域は活断層の密集地帯で、無数の活断層が確認されている。
 熊本地震の教訓を生かせば、強い地震が起きた後、同規模の地震が近隣の地域で再び発生する恐れに警戒しなければいけない。
 それは余震かもしれないし、本震かもしれない。
 また、別個の地震が誘発されて起きるかもしれない。
 今後の予想は難しいが、可能性として、大地震の発生したあと数日から数週間は、同程度の地震が起きやすい状態にあることだけは確かだ。

 
 大阪府内を震源とした地震が起きたのは、1936年の河内大和地震以来だ。
 河内大和地震は、M6.4 、死者8名だった。
 それほど大阪で内陸型の地震が起きるのは珍しい。
 大阪で一番心配されている内陸型地震は、上町断層帯が破壊して起きる地震だ。
 これが起きると、大阪市内が壊滅的なダメージを受ける。
 有馬高槻断層帯は、上町断層帯とは直接つながっているわけではなく、影響は少ないだろうと見られている。
 ただ、一度地震が発生し、地盤のひずみ状況に変化が生じると、周辺の活断層を刺激する可能性があり、そのことが心配されている。

 今回の地震は、直接的な被害はそれほど大きくないが、交通機関への影響が大きかった。
 大阪、京都、神戸、奈良のJR、各私鉄は全面運休になった。
 新幹線は午後になって一部運行再開。
 月曜日の通勤時間帯だったことから、人々の移動に大きな影響が出た。
 都会を襲う地震は、直接的被害が少なかったとしても、間接的な被害が広範囲に及ぶ場合がある。
 
 この地震を、私は京都事務所にて感じた。
 最初、地響きのような細かい揺れが発生。
 初期微動だ。
 すぐに地震だと分かった。
 だが、スマホの緊急地震速報がその時点では無反応。
 初期微動が3秒ぐらい続いた後、大きな横揺れ。
 書棚などを揺さぶった。
 横揺れは十数秒ぐらいで減衰していった。
 揺れている最中に、スマホの緊急地震速報が鳴り始める。
 気象庁は地震発生後4秒以内に緊急地震速報を発信したという。
 京都事務所から震源まで24km。
 これだけ震源が近いと、緊急地震速報は間に合わない。
 ただ、3秒の初期微動があり、この間に身構えることができるかどうかが重要になりそうだ。



 

 
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2018年06月10日

被害想定1410兆円:南海トラフ巨大地震

 土木学会が7日、南海トラフ地震の長期的な経済被害額の推計を公表した。
 南海トラフ巨大地震発生後、20年間で最悪1410兆円に達すると算定。
 「国難」と呼びうる事態になりかねないとして、政府に対策の強化を求めるという。
 1410兆円は国家予算の14倍。
 日本は東アジアの最貧国に転落しかねない。

 南海トラフ巨大地震の被害総額は、5年前に内閣府が行なった推計がある。
 220兆円。
 これは、被災後1年程度の短期的な被害に限定した数字だ。
 これでも国家予算の2.3倍にのぼる被害規模で、日本経済を根本からひっくり返すようなダメージをもたらすと衝撃を受けた。
 今回の土木学会の推計は、被災後20年という長期的な被害額を算出している。
 そのために、1410兆円という天文学的な数値になってしまっている。
 南海トラフ巨大地震が国難をもたらすのは間違いはないものの、それを強調しようとするあまり、現実離れした数値になってしまっている感じが否めない。
 
 今回の推計の算出根拠はよくわからないが、地震による直接的な被害額は170兆円と推計し、それによって波及する間接的被害を含めると、1410兆円になるということらしい。
 直接的被害とは、地震や津波により損壊した建物やインフラの被害額をいう。
 間接的被害とは、企業の生産活動の低下や国民所得の減少といったものを指す。
 この間接的被害は、本来なら得られたであろう収益が得られなくなるという機会損失のことだ。
 地震による経済活動の低下は長期に及ぶので、この機会損失をすべて足し合わせたら、莫大な被害額になるのは当たり前だ。
 だが、地震が起きなかった場合と比べて、地震が起きた後の機会損失を長期に足し合わせることにどれだけの意味があるのか分からない。
 
 地震発生後は経済活動が長期にわたって停止したままになってしまうわけではない。
 直ちに復旧活動、復興活動が始まる。
 地震発生と同時に経済活動は一気にどん底に落ちるが、その直後から、活動が再開する。
 全国のあちこちで復興需要が発生し、たぶん、日本経済は急ピッチで立ち上がっていくだろう。
 つまり、長期的な被害額というのは、潜在的な復興需要の総額でもあるのだ。

 確かに、南海トラフ巨大地震が日本経済に及ぼす影響は大きい。
 一時的に壊滅状態に陥る。
 だが、日本が最貧国に転落することはない。
 今回の土木学会の推計は、国の防災予算を確保するための説得材料として提示されたのだろう。

 南海トラフ巨大地震による被害を最低限に抑える対策を怠らないのは重要だ。
 この事前対策は、本番を迎えるまで永遠に続けなければいけない。
 しかし、事前対策には完璧はあり得ず、どんなに対策を施しても、多大なダメージを受けるのは避けられない。
 企業のBCPでは、ダメージを最小限に抑える対策を怠らないのは当然だが、ダメージを受けた後、いかに早期に業務再開するかということの方に重点が置かれる。
 つまり、BCPのポイントは、被害を受けないことにあるのではなく、被害を受けても最短で立ち上がることにある。

 企業のBCP支援をしているときによく見かける失敗事例に、ポイントの置き所が間違っているケースがある。 
 被害をなくすことばかり考えていてそこから先に議論が進んでいかないことがある。
 どんな対策を施しても、被害をなくすことは無理だ。
 考えれば考えるほど、不可能の壁にぶち当たり、手詰まりになる。
 「もう何をやってもダメだ」という答えしか出てこなくなり、やがて考えることもあきらめてしまう。
 私たちがやるべきは被害を最小限に抑えることであり、被害をゼロにすることではない。
 ヒトの命が奪われたり、事業が再起不能に陥ってしまうような最悪の事態だけは絶対に避けなければいけないが、それさえクリアできたら、あとは、いかに早く業務を再開するかということの方に重点を移すべきだ。

 これは、地方自治体の南海トラフ対策においても同じだ。
 被害想定の大きさに気後れして手詰まりになっているところがあまりにも多い。
 一定程度の被害があるのは当たり前。
 それを前提に、いかに早く復興するのかということの方が遥かに重要だ。
 震災後の復興計画を描いている自治体がある。
 この自治体は震災後も間違いなく発展するだろう。
 少子高齢化が急速に進む時代、人口減少に歯止めがかからない自治体が出始めている。
 今後は、地方においては人口の奪い合いが起きる。
 南海トラフ巨大地震によって、この傾向は加速し、自治体の優勝劣敗が明確になりそうだ。
 
 
 
 
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2018年05月18日

地銀優等生の化けの皮:スルガ銀行

 スルガ銀行の杜撰融資の実態が暴かれつつある。

 不動産投資の個人ローンをめぐって行われた杜撰融資の実態はこうだ。
 不動産会社が個人相手にマンションの不動産投資を勧める。
 不足資金は銀行借り入れにより対応する。
 返済資金は、マンションの賃貸料で賄う。
 はじめから巨額資金がなくても、マンション投資ができるというのがスキームの基本だ。
 
 個人客は、賃貸料が入らなくなったときに、このスキームが破綻するのがすぐに分かる。
 そのリスクを解消するために、不動産会社は、マンションを借り上げ賃貸料を保証するという条件を出す。
 こうすれば、個人のリスクはない。

 さらに、不動産投資は一定割合は自己資金で対応するのが原則だが、不動産業者はそこもクリアできるように画策する。
 自己資金ゼロでも不動産投資が可能を売りにする。
 自己資金ゼロで融資してくれるような金融機関があるのか。
 あるわけがない。
 そこで、不動産業者は、銀行融資を受けるときに客の自己資金を偽装する。
 預金通帳のコピーを書き換えたり、一時的に預金口座に一定額の金額を入金したりしてごまかすのだ。
 あとは、審査の緩い金融機関を見つけるだけ。
 その金融機関がスルガ銀行だった。
 スルガ銀行は、審査スピードの速さと柔軟な融資姿勢が売りだった。
 分かりやすく言えば、審査のハードルが低い。
 個人ローンでも、自己資金10%あればOK。
 この10%の自己資金さえ偽装できれば、融資は簡単に実行される。

 例えば、1億円の投資物件があるとしよう。
 その場合は、投資物件の価格を約1億1千万円に割増し、さらに投資家の個人資産が約1100万円あるかのように偽装する。
 すると、スルガ銀行から1億円の融資を引き出すことができる。
 その1億円の融資金でマンション購入すれば、自己資金ゼロで不動産投資ができるという仕掛けだ。

 ここで問題になるのが、スルガ銀行がこのスキームを知っていたのかということ。
 知らなかったらスルガ銀行は被害者だが、実態は知ってたどころか、積極的に関与していたようだ。
 融資の申請書類の改竄まで関与していたようだ。
 審査のスピードと柔軟さも、営業部門の圧力に審査部門が屈した結果だった。
 不動産会社に利用されたというより、むしろ、スルガ銀行が不動産会社を顧客獲得に利用していたように見える。
 不動産業者は、賃貸料の保証が行き詰まり、新たな投資の入金を支払いに充てる自転車操業が続き、ついに経営破綻。
 それで、個人融資が一気に不良債権化し、今回の杜撰融資が表面化した。

 去年まで、スルガ銀行は地銀の中でも特に収益力が高い優良銀行と評判だった。
 行員の年収も都市部のメガバンクを超える。
 預貸金利ざやを見ると、地銀の中では断トツにとびぬけて高い。
 多くの地銀がマイナスの利ざやに苦しみ、優良銀行でも1%に届かないのが当たり前の中、スルガ銀行だけは2%を超えていた。
 2位以下をぶっちぎりで引き離してトップに輝いていたのだ。
 いろんなアナリストが、結果論でその成功要因を分析していた。
 法人融資が伸び悩む中、個人ローンに対象を特化し、審査のスピードと柔軟さで他行を引き離した。
 他行が手を出さないようなリスクの大きい個人も対象とするが、そこはリスクに見合った高金利でバランスを取る。
 スルガ銀行は創業家一族の支配する珍しい金融機関だが、そのことも成功要因として語られたりした。
 創業家だから、リスクに挑戦し、大胆な業務変革ができると分析された。
 金融庁でさえスルガ銀行の好業績なべた褒めだった。
 「今後の地銀の新しいビジネスモデルを確立した」

 これほどのすばらしいビジネスモデルなら、なぜ他行が真似しないのか。
 この謎についてもいろんな解釈がされた。
 個人客の豊富なデータベースがあり、適切な与信審査がスピーディにできることが他行が真似できないノウハウであるらしかった。

 スルガ銀行が圧倒的に高い利ざやを確保できていたのは、簡単だ。
 個人に高い金利で融資をしていたから。
 金利が高いということはリスクが高いことを意味する。
 金利の高い個人客ばかり集めてしまうと、貸し倒れのリスクが高まってしまう。
 それを恐れて、普通の金融機関はそこに突っ込めない。
 スルガ銀行のビジネスモデルをどうして他行は真似しないのかは、簡単だ。
 リスクが大きすぎるからだ。
 スルガ銀行のビジネスモデルが特別に優れているわけでも、独特のノウハウがあるわけでもなかった。
 誰も気づかなかった新しいビジネスを確立したわけでもない。
 ただ、リスクの大半を不動産業者の詐欺スキームの中に溶け込ませることで、表面的に好業績を上げることができていただけなのだ。

 スルガ銀行が個人に融資していたのは投資向け個人ローンだけではなかった。
 個人ローンの条件としてフリーローンも付加するケースもあったという。
 フリーローンは使い道は自由。
 その代わり金利が7.5%とものすごく高い。
 言われるがままに、不必要に高金利の借金をしてしまった個人客がいそうだ。
 さらに、そのフリーローンで融資した金額をそのまま拘束預金として縛ることもしていたらしい。
 使い道自由のはずのフリーローンが使えなくなる。
 なのに、高金利を負担しなければならない。
 結局、個人ローンの金利負担が増えるのと同じことになる。
 これは歩積両建といって、表面金利を変えずに、実質金利を上昇させる古くからある手口。
 いまだにこんな手口を使っていたのかと驚くばかりだ。
 こうなると、悪質な高利貸しの様態を示している。

 

 


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2018年04月20日

地震断層観察館に行ってきた

 岐阜県本巣市にある地震断層観察館に行ってきた。
 この施設は、濃尾地震でできた根尾谷断層を現場保存し見学できるようにしてあることで知られる。
 濃尾地震は1891年10月28日午前6時37分に発生した直下型地震だ。
 マグニチュードは8.0を記録し、内陸型地震としては、国内最大級だ。
 7千人を超える犠牲者、14万戸の家屋倒壊など甚大な被害をもたらした。
 この時、80qにわたって断層がずれ動いた。
 上下6mの断層崖が隆起したのが、根尾谷断層だ。
 地震直後に取られた断層崖の写真は、教科書にも載っており、たいていの人は目にしたことがある。
 この断層崖は、いまでも残っており、断層のずれの大きさを実感できる。

 地震断層観察館は、樽見鉄道の水鳥駅のすぐ前にある。
 樽見鉄道はJR大垣駅で乗り換えだ。
 6番ホームに向かうと途中に切符売り場がある。
 自動販売機ではない、手売りの切符売り場。
 
 「えーと、ミズドリまでください」
 「あぁ、ミドリね。890円です」

 「水鳥」と書いて「みどり」と読むことを初めて知った。
 既に車両がホームに停まっていた。
 ディーゼル車が1両。
 乗客は全部で20人ほど。
 単線の樽見鉄道は、ところどころの駅で対抗車両とのすれ違いをしながら進んでいく。
 はじめのうちは平野部の街中を進んでいくが、すぐに田園風景に変わり、日本の地方らしい景色になる。
 途中、トンネルがいくつもあり、通過するたびに風景がどんどん山間部の雰囲気になっていく。
 両側に新緑の山々が迫り、眼下にはエメラルドグリーンの渓流が見える。
 各駅停車で止まる駅名は、いままで見たことも聞いたことのない珍しいものばかり。
 初見では読めない駅名が多い。

 北方真桑=きたがたまくわ
 木知原=こちぼら
 神海=こうみ
 鍋原=なべら
 日当=ひなた
 水鳥=みどり

 約1時間で水鳥駅に到着。
 降りた客は私を含め2人だけ。
 乗り込む客はなし。
 プラットホームと屋根のついた待合場所があるだけの簡易な無人駅。
 ディーゼル車が去ると、辺りは静寂に包まれる。
 何の物音もしない、遠くのホトトギスの鳴き声だけが山間にこだましているのが聞こえる。
 私と一緒に降りたはずの年配の女性は、いつの間にかいなくなっていた。

 駅から地震断層観察館の屋根が見える。
 そこを目指して歩いていく。
 自動車も通らない。人も歩いていない。
 突然に山中の寒村に降り立ったような感覚だ。
 観察館の前まで来たが、人の気配がない。
 今日は開館しているのだろうか。
 入口に回ると、立て看板が出ていて、「開館中」とあった。
 自動ドアを通って中に入ると、受付の女性がすぐに反応してくれた。

「いらっしゃいませ」

 よかった。人がいた。
 
「地震体験コーナーはどうされます?」
「体験コーナーは何時からですか」
「決まってないんですけど、行かれるのであれば、いまから電源入れてきますけど」

 来客のない平日は、電源を落としているのだ。
 いまは私しか客がいないので、希望を聞いて対応するということだろう。
 本来なら上映開始時間は決まっているのだろうが、今日は私の貸し切り状態で、いつでもお望みの通りにというわけだ。
 
「じゃぁ、ぜひお願いします」
「では、準備に10分ぐらいかかりますので、それまで他の展示コーナーを先にご覧ください」

 展示コーナーの入り口はやや暗いトンネルになっている。
 自動ドアが開いて、中に足を踏み入れると、突然轟音ととともに赤い閃光が点滅する。
 入場者をびっくりさせようとする演出だ。
 中に入ると、地震のメカニズムを開設したパネルや、根尾谷断層の立体模型などが展示されている。
 断層の立体模型は、ボタンを押すと平坦だった土地が片側だけ大きく隆起する動きを見ることができる。

 奥に進むと、地下観察館に入る。
 ここは、最大の見どころ、実際の断層を観察できるところだ。
 すり鉢状に地面が大きく掘削されていて、その斜面に断層のずれがはっきり浮かび上がっている。
 断層面はほぼ垂直に立ち上がっており、上下に6mずれていることがはっきりわかる。
 一瞬にしてこれほどの大地の変動をもたらす自然の巨大エネルギーに圧倒される。
 これほど大きくはっきりした断層は世界的にも珍しく、学術的にも価値が高いという。
 
 断層を観察して外に出ると、職員の方が呼びに来てくださった。

「準備ができたのでこちらへ」

 いよいよ体験コーナーだ。
 立体眼鏡をかけて、中央の席に腰を掛けた。
 シートベルトをかける。
 座席が揺れるので上映中は席を立ってはいけないという注意を受ける。
 正面スクリーンで映画が始まる。

『7番目のスバル』

 小学生を主人公にしたドラマ仕立て。
 夢の中で1891年10月28日にタイムスリップし、そこで濃尾地震を体験する。
 木造の不気味な廃屋の中に迷い込んだ主人公を大地震が襲う。
 午前6時37分地震発生。
 突然座席がガタガタと揺れ始める。
 映像はいろんなものが倒れたり落ちたりする場面が映し出される。
 斧や鎌が上から目の前に落下してくるような映像もある。
 折れた梁が目の前に飛び出してくるような映像も。 
 立体効果を最大限に発揮したような絵作りだ。
 小学生の遠足でこれを体験したら、たぶん会場全体が大騒ぎになるだろう。
 いや、最近の遊園地では絶叫マシンが当たり前の時代、この程度では刺激が足りないかもしれない。
 
 揺れは上下左右に大きく動いた。
 体も大きく揺さぶられて、手すりを持っていないと体がずれてしまう。
 震度4〜5ぐらいの揺れを再現しているらしいが、それ以上に感じた。
 こんな揺れが突然起きたら、どんなに落ち着いた大人でも冷静ではいられないだろう。

 この観察館で費やした時間は30分ぐらい。
 外に出ると、道を挟んで向かい側が断層公園になっている。
 公園と言ってもちょっとした広場になっていて、案内板が2枚並んでいるだけ。
 この公園から、現在の断層の痕跡を見ることができる。
 目の前に巨大な断層崖が連なっているのが分かる。
 あの教科書に載っていた写真と同じ場所にいまいるんだということを実感させる。

 帰りの鉄道の時間まで1時間ある。
 すぐ近くに「樅ノ木」というそば屋があった。
 そこで昼食をとって時間を潰そう。
 営業しているのか。
 店の前に「天狗そば」というのぼりが立っている。
 店の上には赤い回転灯がぐるぐると回っている。
 店の前に行ったら「商い中」と札がかかっていた。
 中に入ると、先客が1名。
 店の人らしい人が何人かいるが、何か歓迎されている雰囲気がない。
 なじみの客しか来ない店か。
 席への誘導もないので、勝手に空いている席に座って、メニューを見る。
 そば類のメニューだけ。
 一番安いので1000円の天狗そば。
 てんぷらそば定食にすると1600円になる。
 店の雰囲気とメニューの相場があっていない。
 そのうち、お茶とおしぼりをもって注文を取りに来るだろうと待っていると、遠くでおかみさんらしい年配女性の声。

「注文決まったら言ってね」

 ようやくこの店のシステムを理解し、慌てて注文した。

「天狗そばおねがいします」
「あったかいの? 冷たいの?」
「あったかいので」
「はーい」

 最近は、サービス過剰なレストランしか経験していないが、昔の食堂はみんなこんな調子だった。
 そして、それで何の問題もなかったし、客も文句を言うことはなかった。
 何か昭和の懐かしい雰囲気を久しぶりに思い出させてくれた。
 しばらくすると、そばが運ばれてくる。
 色の濃い太さの不ぞろいの麺。
 漬物、佃煮、豆腐がついている。
 素朴な田舎そばだ。

 時間まで店内の週刊誌を読みながら時間を潰す。
 どの週刊誌も3週間前のもの。
 この辺には書店はない。
 コンビニもない。
 週刊誌を手に入れようと思ったら、ずいぶん遠くまで出かけなくてはいけないのだろうな、と古い週刊誌記事に目をやりながら余計なことを考える。
 私が滞在した約1時間の間、他の客が来店することはなかった。
 
「ごちそうさまでした」

 勘定をすまそうと立ち上がると、店内には店の人の気配がない。
 厨房の奥からご主人らしい男性が現れる。

「あ、ありがとうございました」

 人のよさそうな主人は何度も頭を下げながら、お金を受け取ろうとしない。
 いま仕込みの最中らしく、手が濡れているためだ。
 千円札をカウンターの上に置いて、店を出た。
 店の前には、山桜が植えてあり、それがいま満開だった。
 そば屋を背景に桜を写真に収め帰路につく。
 小旅行だったが、私自身、過去にタイムスリップしたような不思議な感覚を味わうことができた。
 JR大垣駅から1時間のところに、こんな世界が残っているとは。
posted by 平野喜久 at 12:48| 愛知 | Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月05日

嶋田賢三郎著『巨額粉飾』読後感

 嶋田賢三郎著『巨額粉飾』を読んだ。
 鐘紡の元財務経理担当常務だった著者が、自ら経験した粉飾決算の内幕をフィクションとして描き出した経済小説。
 私も、鐘紡の財務部社員だったこともあり、思わずこの本を手にし、夢中で読破した。
 著者の嶋田氏とは、同じ時期に鐘紡社員であり、部署も近かったはずだが、ほとんど接点はなく、記憶にない。
 ただ、私が現役当時から、鐘紡の業績悪化は深刻の度を増しており、経営再建が喫緊の課題であることが誰の目にも明らかでありながら、抜本的な手を打てていなかった。
 自分なりに鐘紡の経営分析をしながら、「よくこの会社が持ちこたえているなぁ」と感じたことを思い出す。
 この本を読んで、経営上層部では、こんな動きをしていたのだということが分かり、「なるほど、そういうことだったのか」と合点がいった。
 これは、普通の経済小説とは毛色が違う。
 ドキュメンタリーに近い。
 著者自身が見聞きし、経験したことを詳細に記録した手記のようだ。
 著者の知見だけでは足りないところをフィクションでつないで小説として読ませようという意図だろう。
 固有名詞はすべて仮名になっているが、それぞれ実際に誰のことか、どの企業、銀行、監査法人のことか一目でわかるようになっている。
 粉飾の手口など詳細に解説されており、事実に裏打ちされた強烈なリアリティがある。
 一般の経済小説は、ストーリーを分かりやすくするために、込み入ったビジネススキームは省略したり単純化したりして、読者への配慮をするが、その分、現実にはあり得ないような不自然な設定があちこちに出てしまう。
 その点、この作品は、内部の人間でしか知りえなかったような話が、むき出しのリアリティで展開する。
 著者は、経済小説を書こうとしたのではなく、フィクションの体裁を借りたドキュメンタリーを書こうとしたのではないか。
 内部の人間にしか知りえない粉飾の真実を伝えることが目的だったのではないか。

 ただ、小説として読んだとき、この作品は読みにくさは否めない。
 場面展開がぶつ切れでつながっていない。
 いつの間にか場面が飛んでいて、ついていくのが大変。
 時系列が行ったり来たりして、いまどの時点の話なのか確認するのに骨が折れる。
 会話表現やト書きも未熟で、途中何度も「このセリフは誰の言葉だろうか」と分からなくなる。
 後半になると、ほとんど著者本人の弁明の手記のようで、ひたすら「自分は悪くなかった」ということが延々とつづられている印象。
 全体にストーリー展開に起伏がなく、読者を引きずり込む仕掛けもない。
 500ページを超える長編。
 元鐘紡社員だったから最後まで読めたが、一般の人には読み通すのがしんどそうだ。
 
 巨額粉飾をテーマに小説を書くのなら、次のようなポイントを押さえてほしかった。
 なぜ、名門企業が粉飾に手を出してしまったのか。
 なぜ、何十年もの間、粉飾をやめられなかったのか。
 なぜ、見るも無残な最期を迎えることになってしまったのか。
 この小説では、過去の長期間にわたって信じられないような粉飾が行われてきたことはよくわかったが、「なぜ」の部分がまったく見えなかった。
 せいぜいが「歴代の経営トップが間抜けだったから」という印象しかない。
 名門企業が崩壊していく過程をリアルに描き切っていたら、歴史に残る名作になったはず。
 残念だ。

 
 
 
 
 
posted by 平野喜久 at 22:07| 愛知 ☁| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月15日

AIによるMEGA地震予測:これはAIではない

 週刊ポスト3月30日号にまたまた「MEGA地震予測」が登場。
 今度は、AIを導入して予測精度を上げたというのが目玉だ。
 AI地震予測では、全国を30地区に分け、各地区から抽出した6つの電子基準点の動きを予測に用いているらしい。
 そして、「震度4以上の地震が半年以内に発生するリスク」を0〜5の6段階で評価し表示する仕組みになっているという。
 そのAI予測の結果が雑誌の1ページを使ってマップ表示してある。
 そのマップを見て驚くのは、ほぼ日本列島全域が警戒エリアに入っていること。
 警戒レベル0になっているのは、山陰地方と北海道東北部だけ。
 そのほかのエリアは何らかの警戒レベルにあることを示している。
 ただ、その警戒レベルには強弱があり、レベル5の評価がついている地域は、岩手・宮城・福島あたり。
 東日本大震災が起きたエリアであり、その後も余震が継続している地域だ。
 なるほど、このエリアだったら、震度4ぐらいの地震は当たり前に起きそうだ。
 こんな感じで、日本列島のほぼ全域が何らかの警戒レベルに入っている。
 予測基準を震度4以上に設定しているところが弱気だ。
 震度4程度の地震だったら、しょっちゅう起きている。
 半年の間に、日本で震度4の地震が起きないことを予測する方が難しい。
 おそらく、実際に日本のどこかで震度4以上の地震が起きたとき、「予測的中!」と表明するのだろう。
 本当に防災のための予測を求めているのであれば、具体的に被害の出る「震度5弱以上」に設定しなければいけない。
 だが、震度4を震度5弱にするだけで、発生頻度は極端に下がるため、当たりにくくなってしまう。
 それで、そこまで踏み込めないのだ。
 座興のために、この予測マップは半年間保管しておくことにしよう。

 この地震予測の特徴は、地震を震度で予測していること。
 震度というのは、ある特定の地点の揺れの大きさを示しているにすぎず、地震の特性を示したものではない。
 普通は地震の特性はマグニチュードと深さで表す。
 地震そのものを予測しようとしたら、本来ならマグニチュードや深さをターゲットにしなければいけないはず。
 地震が発生した結果である揺れの大きさで予測しようというのは、むしろ難しい。
 MEGA地震予測がなぜマグニチュードではなく、震度を使っているのかは不明だ。
 ただ、ある地震のマグニチュードは1つしか存在しないし、震源も1か所しかないが、震度だったら、揺れた地域すべてが対象になるし、各地でいろんな震度があり得る。
 震度で予測した方があたる可能性が広がるということだろうか。

 今回AIによる精度向上を謳い上げているが、いくらAIを駆使しようと、間違った理論でいくら精度を高めたところで、間違った結果しか導かれない。
 記事によると、2005年から現在までの電子基準データすべてをAIにインプットして分析しているらしい。
 過去のデータをもとに最新の動きを照合すれば、異常変動がたちどころに察知でき、地震発生のリスクを割り出すことができるという。
 このリスクを割り出すところが最大のポイントだが、この部分は不明。
 ここのプログラミングは、従来と同じ理論をベースにし、村井氏のいままでのノウハウを投入しているようだ。
 ここで、まったくAIではなくなっている。
 AIを使っていると言いながら、やっていることはただのパソコンを使ったデータ分析のレベルだというのがまるわかりだ。
 本来なら、過去の電子基準データのすべてを読み込むと同時に、過去に日本で発生した震度4以上の地震データもインプットしなければおかしい。
 そして、基準データと地震発生との相関をAIに分析させることで、初めて予測が出る。
 これを行なっているのだったら、その分析結果は注目に値する。
 注目するというのは、それを信じてもいいということではなく、どこまで当たるのかを確かめるだけの価値があるということだ。
 ところが、AIにこの分析をさせた形跡がない。
 たぶん、こんな分析をしたら、AIは相関を見つけられないのだろう。
 見つけられない理由は、もともと無関係のものの間に相関を見出そうという不毛な分析であることと、インプットデータが圧倒的に不足していること。 
 地震のメカニズムは過去十数年間のデータだけで解明できるような短期的な動きでは全くない。
 十数年間のデータで、100年200年に1回の大地震の予測をするのは、そもそも無理だ。
 
 そこで、不足しているところは、村井氏の理論で補い、データを入力すれば何らかの警戒レベルが算出できるようにプログラミングされているのではないかと予想される。
 このMEGA地震予測は、地震学の専門家の間では、一顧だにされていない。
 科学的根拠がないからだ。
 論文の形で基礎データとともに公表されていないので、科学的に検証のしようがなく、専門家は敢えて否定したり反論したりしていない。
 それをいいことに、メディア向けに大げさな売り文句で情報発信をし続ける。
 今回の週刊誌記事も、有料メルマガへ読者を誘導する広告記事にしかなっていない。
 MEGA地震予測の悪質さは、驚異の的中率を標榜し続けていること。
 的中率が何を意味しているのか全く不明。
 どんぴしゃり予測が当たらなくても、少しかすっただけで、やや近かっただけで、「予測的中!」と都合のいい解釈をしているだけではないかと疑わせる。

 地震予測にAIを導入するのは大いに結構だ。
 ならば、勝手な解釈が介入する余地のない分析にしてほしい。
 過去の電子基準点のデータと地震発生データをAIに分析させて、その相関を見てみたい。
 そして、相関が見つかったら、そこから次の地震をどのように予測すればいいのかをAIに考えさせてほしい。
 そして、そのAI予測と実際の地震発生と比較し、初めてその精度が確認できる。
 これだったら、意味がある。
 そして、どうせここまでやるのだったら、電子基準点のデータだけではなく、電離層のデータも、気象のデータも、地殻のゆがみのデータも、動物の異常行動のデータも、地震雲のデータも一緒に分析してほしい。
 あらゆるデータの中に、過去の地震発生との間に、もしかしたら強い相関を示すデータが見つかるかもしれない。
 こちらの方が、はるかに興味深い。 
 たぶん、これらのデータを入力しただけでは、すべて「相関なし」という結果しか出ないだろうが、これはこれで意味がある。
 
posted by 平野喜久 at 15:50| 愛知 ☀| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月03日

公共放送受信料の国民投票:スイス

4言語の
 読売新聞の報道による。
 スイスで、公共放送の受信料の廃止の是非を問う国民投票が4日に行われるらしい。
 下院第1党の右派・国民党と第3党の中道右派・西寧部グループが共同発議による。
 発議者は、「受信料は、メディアの公平な競争の機会を奪う」として、放送事業の入札制も訴えている。
 スイスの公共放送は、独仏など4言語のテレビ・ラジオと、日本語を含む多言語のニュースサイトを運営している。
 受信料は、年に450スイスフラン。
 日本円に換算すると、約5万1千円になる。
 受信料廃止の議論が持ち上がったのは、テレビやラジオの有無に関係なく全世帯から受信料を一律に徴収する法改正案が可決されたことがきっかけだった。
 「なぜ公共放送だけが受信料を徴収するのか」という不満が広がった。
 議会では、国民党だけが廃止を支持しており、他は反対。
 世論調査では、廃止反対は65%に達しているという。

 どうやら、国民投票では、受信料廃止は反対で可決されそうな情勢だ。
 国民の不満が広がっているはずなのに、なぜ?
 それは、全世帯から徴収する代わりに、受信料の値下げが決まっており、既に受信料を払っている人たちにとっては、反対する理由がないのだ。
 この報道を見ると、日本のNHKだけでなく、他国の公共放送でも受信料制度の問題が持ち上がっていることに気づく。
 NHKも、テレビの有無にかかわらず全世帯に受信料の支払い義務を課すシステムを検討し始めている。
 世間の反発を恐れて、堂々と法改正を要求するところまではいっていないが、単発的に情報をリークし、観測気球を上げている感じだ。
 現状では、受信機を設置した者に受信契約の義務が法律で規定されている。
 ここでポイントとなるのは、NHKを見ているかどうかは関係ないこと。
 なぜNHKを見ない人からも受信料を徴収するのか。
 それは、公共放送だから。
 公共放送は、国民の知る権利を保障するため、国民みんなで支えるもの。
 だから、受益者負担ではなく、国民負担になっている、という理屈だ。
 この理屈を延長させると、受信機を設置した者に負担を限定する必要はなく、「受信機の有無にかかわらず全世帯から」という理屈に直結することになる。
 NHKが全世帯負担を目指すのは理論上の必然というわけだ。
 スイスでは、いち早くその動きが始まっていた。
 NHKは、スイスでの受信制度のなりゆきを注視しているだろう。
 「全世帯負担に切り替えたとしても、受信料の値下げと引き換えにすれば、多くの国民の支持を得られる」
 この実証事例になりそうだ。
 
 受信制度については、筋が通らないいろいろ疑問点が多い。
 戦後間もないころの放送法がそのまま存続しているために、実態との乖離が激しいからだ。

 現在、世帯ごとの受信料負担になっている。
 1世帯であれば、そこに何人住んでいようが、何台のテレビがあろうが、1契約だ。
 一方、学生が単身で暮らしている下宿先にも受信料契約を迫る徴収人が現れる。
 この不自然さ。

 また、「受信機の設置」の意味もあいまいになっている。
 普通はテレビを部屋に置いて、放送を受信できる状態になっていることをイメージするが、NHKはテレビがなくても、携帯電話やスマホでワンセグが見られる状態なら、受信機の設置とみなすと規約を作っているらしい。
 これは裁判でも争われている。
 部屋に設置したハイビジョンデジタル放送受信と、携帯の小さい画面で見る受信状態の不安定な低画質の受信とが、同じ条件の契約になることになる。
 これも一般常識からかけ離れた不自然さだ。

 ここには、すべて、「NHKを見ているかどうかは関係ない」という理屈から始まっている。
 見ているかどうかが無関係なら、放送がきれいに映るかどうかも無関係。
 受信機の設置だけが唯一の条件だ。
 この受信機の設置の解釈も最大限拡大して、携帯電話やスマホ、カーナビ、パソコンにまで対象を広げている。
 NHKとしては、この唯一の条件も撤廃したいところだが、そのためには、法改正がいる。
 スイスの事例を踏まえ、いずれ受信料の値下げと引き換えに全世帯負担の法改正に動き出すだろう。

 この時、問われるのは、NHKの金満体質だ。
 いま、NHKは有り余るほどの受信料を集め、使いきれずに内部留保をため続けている。
 それも、コストカットで切り詰めて内部留保をためているのではなく、民放ではありえないような贅沢な番組作り。
 傘下の関連企業に外注の形で資金流出させ、全国に大量の職員を高給で抱え続けている。
 それでも、使いきれずに金が余っているのだ。
 受信料制度の見直しは日本でも必要だ。
 それは、国民に負担を求めるだけの見直しにはならない。
 NHKのあるべき姿を根本的に見直すところから始めないといけないだろう。
 NHKにこれほどのチャンネルが必要か。
 NHKにドラマや情報バラエティーが必要か。
 NHKに4Kや8Kが必要か。
 そもそも公共放送の役割とは何か。

 国民に負担を強いる受信制度のあり方について、政治課題に上がってこないのは不思議でならない。
 
 
posted by 平野喜久 at 10:39| 愛知 | Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月13日

JR信越線立ち往生:緊急時の判断の難しさ

 信越線普通電車が15時間半も立ち往生する事故が発生した。
 乗客は430人。
 満員状態で、立っている人も多かったという。
 満員電車の中で15時間半も閉じ込められるのは異常事態としかいいようがない。
 
 どうしてこのようなことになったのか。
 どうやら、現場判断がことごとく裏目に出た結果らしい。
 電車は午後6時55分、東光寺駅を発車。
 しかし発車して300メートル、1分もたたないうちに電車の前にたまった雪で停止。
 ここから判断の迷走が始まる。
 駅を出たばかりなので、東光寺駅に戻ることも検討した。
 だが、そこは無人駅でホームに雪が積もっており乗客を避難させるのは困難なので戻っても意味がないと判断。
 さらに停止位置は踏切近くで警報機が鳴り出しており、この警報機は、鳴り始めてから後退すると、再整備が必要になる。
 このことも列車後退をためらわせる要因になった。
 これで東光寺駅に戻る選択肢は消え、次の約2.3キロ先の帯織駅を目指すことになる。
 近隣駅から応援を得て人力での雪かきを始める。
 この時点では、雪国ではよくある積雪による立ち往生で、特に深刻には考えていなかったのかもしれない。

 しかし、雪かきを上回る速さで雪が積もり、運転再開を断念せざるを得なくなる。
 次の選択肢は代替輸送。
 バスやタクシーの手配を検討するが、周囲は細い農道で、近くまでバスを寄せるのは不可能と判断。
 午後7時半ごろには、長岡、新潟両市内に待機していた除雪車を出動させる準備に入った。
 だが、積雪量が多く、現場到着は翌朝にずれ込んだ。

 この間、運転再開の見通しも立たず、救援体制のめども立たないまま、430名の乗客は車内に放置された。
 今後の見通しも立たないので、乗客は詳しい情報提供も行われず、不安の中でひたすら待つしかなかった。
 日付が変わる午前0時前後から体調不良を訴える乗客が出始め、救急搬送。
 水や食料の配布も午前2時40分ごろから。

 乗客の家族が自動車で近辺に迎えに集まりだす。
 JRは「ふぶいているうえに真っ暗な中、線路を歩くのは危ない」との判断から乗客が車外に出ることを認めなかった。
 だが、周辺に迎えの車が列をなすようになり、午前4時半ごろから迎えの車が来た乗客に限り降車を認めたという。

 乗客の不安と苦痛もさることながら、現場のJR職員らの混乱と奮闘ぶりも目に浮かぶようだ。
 結果として対応に問題があったのは間違いないが、どの時点でどうするのが適切だったのかについては、まだよくわからない。
 「東光寺駅を発車させたのがそもそもの間違い」
 「進行不可能を判断した時点でただちに引き返せばよかった」
 「バスを横付けできないとしても、タクシーでピストン輸送すれば対応できた」
 いろいろなアイデアが思いつくが、あくまでも現場の実態を知らない者の思い付きに過ぎない。

 今回の事故の検証が行われるはずだが、その時に、個人の責任追及にならないようにしたい。
 まずは、何が起きていたのかを正確に知ること。
 そして、どうしてそうなったのかを確かめること。
 最後に、そうならないためにはどうすればよかったのかを検討すること。
 これが事故検証で求められる重要ポイントだ。


posted by 平野喜久 at 09:58| 愛知 ☀| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月31日

TBS「陸王」:ビジネスドラマの傑作

 TBSドラマ「陸王」。
 最終回の視聴率は20%を超えたという。
 池井戸潤の作品は、これまで何度もドラマ化されてきた。
 「半沢直樹」「ルーズベルトゲーム」「下町ロケット」
 今回の舞台は、地方の零細業者。
 足袋製造という時代の流れに取り残されたような事業者が、新規事業に挑戦し、世界的大企業と互角に渡り合い、成功を収めていく。
 ドラマが始まった時点でストーリーが見るような成功物語。
 だが、筋書きが見えてしまっても、それを見たいと思わせる魅力があった。
 
 単なるビジネスドラマに終わらせず、マラソンというスポーツの成功物語も絡めたところが秀逸なアイデアだった。
 この作品は、初めから映像化を想定して書かれたそうだ。
 ビジネスドラマだけだと、理屈っぽい会話だけの展開になってしまいがちだが、それをマラソン選手の成功と重ねることで視覚的な表現効果を可能とした。
 視聴者は、こはぜ屋の社員になった気持ちで見入ってしまうが、同時に、茂木選手に感情移入して応援してしまう。
 見事なストーリー構成だと言うほかない。

 もちろん、本当のマラソン選手が見れば、おかしいところはいろいろあるだろう。
 また、ビジネスの現場を知っている人が見れば、こはぜ屋のおかしなところはいろいろ見つかる。
 しかし、それを差し引いてもドラマとしての完成度は非常に高かった。

 主役の役所広司の力量が光っていた。
 最近のドラマは、人気の若手俳優が主役を務め、ベテランが脇を固めるケースが多いが、「陸王」は、ベテラン俳優を堂々と主役に置いたおかげで、周りの俳優を巻き込み、ドラマ全体が生き生きと動いていたという印象だ。
 本当に「こはぜ屋」という老舗の足袋業者が存在し、いまでもどこかで宮沢社長以下の社員らが奮闘しているような感覚になる。

 衆院議員選挙の影響で放送回数が1回減ったらしい。
 その分、他の回の放送時間を長くし、場面もかなりカットしたようだ。
 最終回は、無駄がなく、感動の名場面の連続だった。
 普通なら、最終回だけで2〜3回分の内容だ。
 なんという贅沢なドラマだろう。
 
 こはぜ屋の宮沢社長に敵対的または否定的な人が何人も出てくる。
 銀行の支店長、融資担当者、フェリックス社長、金庫番のゲンさん、息子の大地、ダイワ食品監督など。
 いずれも、最後は宮沢社長の理解者となり応援者になる。
 ただ、アトランティスの小原部長だけは、最後まで悪役のまま屈辱の敗北に打ちひしがれていた。
 小原部長役のピエール瀧が、もっと憎々し気なヒール役に徹することができていれば、最後の爽快感は大きかっただろう。
 だが、小原部長も社命を負って最善を尽くそうと奮闘していたサラリーマンだったことを考えると、最後にアメリカ本社から切り捨てられる場面で同情したくなる。

 続編を期待する声も多いそうだ。
 その後のこはぜ屋を見てみたい。
 陸王は本当にランニングシューズとしての地位を確立できるのか。
 茂木選手は世界レベルで活躍できるようになるのか。
 大地はメトロ電業でどれだけ成長して戻ってくるのか。
 フェリックスからの融資は無事返済できるのか。

 2時間のスペシャルドラマでもいい。
 期待したい。

 
posted by 平野喜久 at 11:19| 愛知 ☁| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月20日

のぞみ台車判断寸前:JR西日本の危機管理ミス

 新幹線のぞみの台車に亀裂が見つかった問題。
 運輸安全委員会は、脱線の恐れがあった重大インシデントであったと認定。
 世界一安全な高速鉄道と言われた新幹線としては異例の事態だ。

 事故には至らなかったものの、台車枠に亀裂が入り、もう少しで破断というところまで来ていた。
 問題個所の写真が報道されたが、素人が見ても明らかに破断寸前であったことが分かる。
 時速300キロで走行中に破断したら、重大事故を起こした可能性は十分あり、恐ろしい。
 この車両に乗っていた人は、後で肝を冷やしたことだろう。

 今回の問題は、台車枠に亀裂が起きたことよりも、異常に気付きながら、確認を怠り、3時間以上も運行を続けていたことにある。
 11日の13:33に博多駅を出発したのぞみ34号は、小倉駅で既に異常が発生していた。
 最初に異常に気付いたのは、社内販売員。
 「焦げたような臭い」との通報があり、車掌が社内点検し、東京指令所に報告。
 指令員が岡山支所に車両保守担当社員の出動を指示。
 13号車の乗客から「社内に靄がかかっている」との通報を受け、車掌が指令員に報告。
 15:16に岡山駅から保守担当が乗車。
 13〜14号車間でうなり音を確認し、指令員に伝達。
 指令員が走行に支障なしと判断。
 運転継続。
 16:01新大阪で保守担当が降車。
 ここから、乗員がJR西日本からJR東海に引き継がれる。
 17:03名古屋駅で、JR東海の保守担当が床下を点検。
 13号車の歯車箱付近に油漏れを確認。
 運転取りやめ。

 不思議なのは、早くから異常に気付きながら、具体的な手を打っていないことだ。
 やったことといえば、通常運行を続けながら、東京の指令所に報告していたことだけ。
 異常を感知した時は、指令所に報告し、指示を仰ぐルールになっていたのか。
 その東京の指令所としても、できることは保守担当社員を乗り込ませることしかない。
 その保守担当も異音を確認して指令所に報告しただけで、何もやっていない。
 JR西日本の保守担当は、新大阪に着いたところで、自分の管轄エリアは終わったとして、そのまま降車してしまったようだ。

 新幹線の安全管理には定評があったはず。
 少しでも異常に気付けば、念のために点検を行い、そのために運行の遅れが出ることもしばしば。
 異常がなくても、大雨が降ったり大風が吹いただけで、徐行運転や運行停止が行われる。
 それほど、最近のJRは慎重な運行をしているのだと思われた。
 ところが、今回のJR西日本の対応は、慎重な安全運行とは程遠い。
 異常を感知した後、それに対して責任ある対応をした者が誰もいない。
 報告はするがそのあとは指令所の指示を待つだけ。
 報告した時点で、自分の責任は果たしたという心理に陥っていたのだろうか。
 指令所も、現場の報告を聞いているだけなので、差し迫ったリスクを実感できず、適切な指示をだせていない。
 東京の指令所は、指示を出したとしても、重大インシデントに責任を負って対処しているという感覚ではなく、現場の問い合わせに対して、アドバイスをしている程度の意識だったのかもしれない。

 ポイントは、新大阪駅だ。
 そこで、JR西日本からJR東海に引き継がれる。
 JR東海に引き渡したJR西日本の乗員や保守担当者は、すべての責任まで引き渡してお役御免という感じか。
 JR東海に引き継がれたおかげで、床下の点検が行われ、事なきを得た。
 JR東海の関係者は「なぜ新大阪までの間に、床下点検をしなかったのか」と不思議がる。

 福知山線脱線事故を引き起こしたのはJR西日本だった。
 もしかしたら、危機管理意識の低さは、JR西日本の体質か。

 
 
 

 
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2017年12月14日

伊方3号機差し止め:ゼロリスクを求める高裁判断

 伊方3号機について、広島高裁は差し止めを命じる決定をした。
 その判断の根拠は、阿蘇山が噴火した場合、火砕流が原発に到達するかもしれないというもの。
 9万年前に阿蘇山が巨大噴火を起こしたときに、160キロ先まで火砕流が到達しているらしく、その時、火砕流が佐田岬半島まで到達していたかもしれないというのだ。
 佐田岬半島まで火砕流が届いていた痕跡が見つかったというのではない。
 「火砕流が到達していないと判断するのは困難」という裁判所の見解だ。
 電力会社側は、四国まで火砕流が到達した痕跡はないと主張していたが、裁判所は、「9万年の経過で痕跡が残存していない可能性がある」と反論した。
 火砕流の痕跡がないからといって、それが火砕流がなかったことの証拠にはならないというのだ。
 阿蘇山の破局的噴火も、具体的にその可能性が確認されているというわけではない。
 「阿蘇山が1万年に1回とされる噴火をした場合、火砕流が原発に到達する可能性がないとはいえない」
 つまり、リスクがゼロであることが確認できない以上、原発再稼働は認めないということだ。
 まるで、原発差し止めという結論が先にあり、そこに結びつけるために、阿蘇山の破局的噴火というリスクを見つけ、無理やりねじ込んだという印象が強い。 

 本当に佐田岬半島が火砕流で覆われるような巨大噴火が起きたら、原発が被害を受けるどころの話では済まない。
 九州が壊滅するのはもちろんだが、北海道までほぼ日本国土すべてが厚い火山灰に覆われ、社会機能は停止する。
 原発の有無にかかわらず、日本国土はヒトの住める土地ではなくなってしまう。
 そのような破局的な事態を想定し、原発リスクだけを取り除いたところで、どれだけの意味があるのだろう。
 



 
posted by 平野喜久 at 08:52| 愛知 ☀| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月11日

NHK受信制度の問題点が浮き彫りに:最高裁判決

 NHK受信料支払い訴訟。
 最高裁まで争われ、12月6日に判決が出た。
 報道の見出しは、「NHK受信制度は合憲」というもので、NHK全面勝訴のようなイメージで伝えられているが、判決文をよく読むと、様子はまったく違う。
 この訴訟は、そもそも違憲か合憲かで争われたものではない。
 未契約者がNHKから訴訟を起こされ、その抗弁の中に「契約強制は契約の自由に反し違憲だ」という主張があったため、その点がクローズアップされたものだ。
 今回の最高裁判決が出る前に、総務省からも法務省からも意見書が提出されたらしい。
 現在の受信制度に問題はないという趣旨の内容だ。
 最高裁で受信制度が違憲との判決が出てしまうと、社会的な混乱が避けられないことから、念のためにくぎを刺しておいたということだろう。
 だから、今回の最高裁判決で、合憲との判断が示されるのは見えていた。
 今回の訴訟の本質は、こんなところにはない。
 NHKの受信制度のあり方そのものが問われていたというべきだろう。

 判決文の冒頭には主文が書かれている。
「主文:本件各上告を棄却する。各上告費用は各上告人の負担とする」
 この上告人とはNHKのことだ。
 これでNHKの訴えが退けられたことが分かる。
 NHKの訴えは何だったのか。
「NHKが未契約者に契約を申し込んだ時点で受信契約が成立する」というものだった。
 これに対して判決では、「NHKが未契約者を相手取って裁判を起こし、勝訴判決が確定した時点で契約が成立する」という判断を示した。
 NHKとしては、未契約者に契約要請の案内を送れば自動的に契約成立にしたい。
 その判断を最高裁に求めて上告していたのだ。
 だが、これはさすがにNHKの身勝手すぎた。
 さらに判決では、「受信料は、テレビ設置時にさかのぼって請求できる」とし、契約前の債務については、5年という時効は適用されないとした。
 内容としては、いままでと違う見解が示されたわけでもなく、受信制度の運用に影響を及ぼす点はほとんどない。
 ただ、今回最高裁で初めて判断が示されたことで、報道でもトップニュースとして扱われ、NHKの受信制度のあり方について国民の関心をもたらすことになった点は大きい。

 この判決文で読むべきは、後半に出てくる木内裁判官の反対意見だ。
 ここには、様々な問題提起がなされており、NHK受信制度の不備を的確に指摘している。
 
1.意思表示の内容
 判決は、NHKが訴訟を起こし判決が確定した時に契約が成立すると判断したが、木内裁判官は「判決で意思表示を債務者に命ずることはできない」としている。
 成立する契約の内容が特定しないまま、承諾だけが強制されることはあり得ない。
 NHKとしては、結果として契約しなければいけないのだから、内容がどうであれ、契約の承諾だけを裁判所が強制してくれればOKとしたいところだが、内容が決まっていないのに債務者の意思表示を判決が代行できるはずがない。
 
2.契約義務者の特定
 同一住居に何人住んでいても、1契約になるが、いったい誰に契約義務があるか不明。
 戸籍上の世帯主か。
 一番収入の多い人か。
 テレビを買って設置した人か。
 それとも、たまたまその場に居合わせ契約書にサインした人か。
 これは法律にも規約にも書かれていない。
 これも裁判で確定させるのか。
 そもそも、NHKが未契約者を相手に裁判を起こすとしても、誰を対象にするのだろうか。
 裁判してみないと義務を負うものが誰か分からないような制度で、契約の義務を求めるのは酷だ。

3.契約の成立と支払い義務の始点
 裁判所の判決で契約の成立が決まるが、テレビ設置の時点までさかのぼって契約成立することはない。
 支払いの義務は契約の成立をもって生じるものであり、契約が成立していない時期の分まで支払い義務が生じることはあり得ない。
 過去の一定期間に存在すべきであった受信契約の承諾を命じるというのは、過去に存在しなかった契約を後から判決が創作するに等しく、到底、なし得ることではない。

4.公平性と支払い義務
 今回の判決文では、テレビ設置時点から受信料債権が発生する理由として、受信料負担の公平性に求めている。
 しかし、放送法では、受信契約の義務を定めてはいるが、受信料の支払い義務については定めがない。
 裁判所は契約承諾の意思表示を命じることができたとしても、契約の存在しなかった過去の受信料支払いまで命ずることはできない。

5.時効消滅
 判決文では、契約者の時効は5年だが、未契約者については時効消滅する余地がないとの判断だ。
 理論上は、50年間の未契約だった場合でも、裁判に勝訴すれば、全期間の受信料を徴収できることになる。
 だが、通常の、不法行為による損害賠償義務でも20年、不当利得による返還義務でも10年の経過で消滅する。
 受信料支払いだけ、時効消滅することのない債務負担を強いる理由はない。
 

 昭和25年に成立した放送法をそのまま現代に通用させようとすること自体に無理がある。
 全世帯に多大な負担をかけ地デジに移行したのは何のためだったのか。
 NHKのスクランブル化で、受信料負担の不公平感は一気に解消する。
 NHKの集金人が戸別訪問して契約促進にかけているコストが年間700億円を超える。
 なんと受信料収入の10%を集金コストにかけてしまっているのだ。
 スクランブル化で、このコストはいっぺんに不要になる。
 テレビを持たないものがしつこい集金人の訪問に不愉快な思いをすることもなくなる。

 スクランブル化は、技術的にはなんら問題はなく、コストもかからない。
 スクランブル化の声は国民から上がっているが、政治のステージにまで届いていない。
 マスコミもあまり踏み込まない。
 一度、NHKの受信制度について世論調査をしたらどうか。
 スクランブル化に反対する国民はいないだろう。
 
 電気料金の支払いが滞ったら、文書で事前通達の後、指定期日に容赦なく供給が遮断される。
 現代社会で電力供給が絶たれるのは、最低限の生活維持すら不可能になるぐらいの強制措置だ。
 場合によっては命の危険さえ伴うかもしれない。
 しかし、この電力会社の措置が問題視されたことはない。
 みんなが納得しているからだ。
 NHK受信料も、これと同じでいいのではないか。
 未契約や不払いについては、スクランブルで受信不能にする。
 こうすることで、受信制度に対する国民の信頼度は格段に上がる。
 NHKの存在意義を理解している人ほど、このスクランブル化を支持するのではないだろうか。
 NHKはスクランブル化を拒否し、ひたすら現状維持を求めている。

 個人を相手に大組織のNHKが裁判を仕掛け、勝訴の実績作りに精を出す。
 集金人も最後の捨て台詞は「そんなことだと裁判になるぞ」だそうだ。
 国民に恐怖感を抱かせ契約を迫る。
 それほどまでして、現状を維持したいNHK。
 いったい、何を恐れているのだろう。







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2017年12月05日

TBSドラマ「陸王」

 TBSのドラマ「陸王」が高視聴率で続いているらしい。
 「半沢直樹」で大当たりとなった池井戸潤氏の作品。
 「ルーズベルトゲーム」「下町ロケット」に続き、同じようなビジネスドラマだ。
 非常に硬派なストーリーで、ビジネスの成功物語だけに焦点を当てている。
 零細企業の経営者のストーリーで、一般の人には感情移入しにくい面があるが、流れを単純にし、ロマンスなど余計な要素を排除して、分かりやすくしている。
 連続ドラマは、登場人物を複雑に絡ませたり、複数のストーリーを同時進行させて幅を広げたり、謎の人物を登場させて先を読みにくくしたりと、いろいろな仕掛けを作るのが通例だ。
 だが、池井戸ドラマは、全くコンセプトが違う。
 むしろ、ストーリーが単純すぎるために先が見える。
 その見えている先の展開を期待させるような仕掛けになっている。
 視聴者は、最後の零細業者の大成功を期待している。
 ちょうど、主人公の経営者と同じ夢を見ながら視聴することになる。
 基本的に男の世界の物語。
 女性も登場するが、すべて補助的な役割しか担うことがない。
 これも、最近のドラマにしては珍しい。
 
 キャスティングも秀逸。
 主人公の足袋製造会社社長の宮沢役:役所広司。
 さすがにベテランの演技力で、見るものを引き付ける。
 本物の零細企業の社長に見える。
 寺尾聡は重要特許を持つ元経営者の役だが、従来とは声色まで変えて、武骨な職人気質を見事に演じている。
 ヒール役として登場するピエール瀧。
 いままでの役柄とは違う憎々し気な表情作りに苦労している様子。
 その他、お笑い芸人が多数出演しているのも特徴。
 普段はおちゃらけイメージの芸人を、敢えてシリアスな役どころに充てているようだ。
 歌舞伎役者、スポーツキャスタ、エッセイストも役者として登場する。
 全キャストが同じストーリーの流れの中に乗っているので、違和感を覚える間もない。

 ストーリーは、いつもの池井戸作品のように、経営の視点で見たときにいたるところに違和感がある。
 この「こはぜ屋」という会社、まったくまともな経営ができていない。
 すべてが、社長の思い付きと行き当たりばったりで進んでいる印象。
 昔ながらの稼業レベルの経営しかできておらず、とてもランニングシューズで新規事業に進出できる体制ができているように見えない。
 銀行が融資を渋るのも当然だ。
 第7話では、アッパー素材のメーカーの裏切り、シルクレイ製造機の火災で窮地に陥る。
 こんなことで窮地に陥ってしまうようなビジネスをしているようでは、経営者失格。
 そんな重要な機械に保険をかけていなかったのか。
 横山顧問が作った機械は試作機のようなもので、これで量産体制に対応するのはもともと無理があったはず。
 既に「足軽大将」というシルクレイを使った地下足袋の製造販売が始まっていたが、それをこんな試作機一台ですべて賄うのは不可能。
 足軽大将の製造の段階で、まず設備投資が必要になったはず。
 現実には、「こはぜ屋」の戦略としては、商品開発と品質管理に特化し、量産品の製造は外部委託の形をとるの通例だ。
 
 次回以降では、フェリックスという外資系企業から買収の話が舞い込むらしい。
 これがどのように展開していくのか注目だ。


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2017年10月15日

希望の党の人気凋落の原因は「排除します」ではない

 衆院選の真っただ中、序盤における情勢分析が各メディアから出ている。
 その内容を見ると、いずれも「与党優勢、希望伸び悩み」との結論となっている。
 一時は、台風の目となりそうとの観測もあった「希望の党」、途中で潮目が変わり、完全に風は凪いでしまったようだ。
 では、いつ潮目が変わったのか。
 メディアでは、代表の小池氏の「排除します」という発言をきっかけに民心が離れたと分析している人が多い。

 民進党が事実上解党し、全員が希望の党の公認候補として立候補するとの報道があり、そのことに対する小池氏の発言として飛び出した「排除します」という言葉。
 「民進党議員を全員受け入れるということはなく、希望の党と方向性の違う人は排除する」という意味であるのは明らかだ。
 民進党議員を全員受け入れていたら、希望の党は旧民進党の看板を掛け変えただけの政党になってしまい、新党の意味がない。
 そんなことができるはずもなく、そこには当然選別が行われなくてはいけない。
 その当たり前のことを小池氏は答えたに過ぎない。
 だが、「排除」という言葉が。民進党議員の不興を買った。
 小池氏の高飛車な態度に反発し、希望の党への入党を拒否する人が出てきて、一部の人たちが無所属での立候補を決めたり、立憲民主党という新党を立ち上げたりした。
 このあたりから、希望の党の人気が下がり始めたようだ。

 希望の党の人気凋落のタイミングとしては、「排除します」発言あたりからというのは間違いなさそうだ。
 しかし、「排除します」発言が民心が離れた原因であったと見るのは違うだろう。
 確かに、「排除」という言葉は強烈で、高飛車なイメージがある。
 だが、この強烈なメッセージで世論を味方につけるのは小池氏の真骨頂だ。
 過去の強烈メッセージは人気獲得に成功したが、今回だけは失敗したというのでは筋が通らない。
 この排除という言葉に反発したのは、元民進党議員だけだ。
 国民は、小池氏に排除されようとしているわけでもなく、この言葉に反発を覚えるはずがない。

 人気凋落の本当の原因は、小池氏の「排除します」発言にあるのではなく、「排除しますと言いながら、排除しきれなかったこと」にあるのではないだろうか。
 つまり、民進党のイメージが定着してしまっているような有名な議員は排除したが、それ以外の民進党議員の多くを受け入れてしまったことが、国民の不信感につながったのではないか。
 安保法案に反対し、議場でプラカードを掲げて審議妨害をし、強行採決の映像を撮らせていた元民進党議員たち。
 同じ人たちがこぞって従来の主張をひっくり返し、希望の党に鞍替えしているのだ。
 希望の党からの立候補者のうち、ほとんどが元民進党議員か元民進党候補予定者で構成されることとなった。 排除しますと言いながら、候補者数を確保するために、なし崩し的に受け入れてしまったという感じが否めない。
 これでは、民進党の亜流ができただけで、何も新しくない。
 最近は、小池氏も「安倍一強をなんとしても終わらせる」「モリだ、カケだ、忖度だ」と言い始め、愕然とした。
 これは、元民進党の言っていたことと同じだからだ。
 いろんな人を党内に抱え込んでしまったために、「反安倍」でしかまとまれなくなっているように見える。
 政策提言ができず、「反安倍」でしかまとまれないというのは、旧民進党の欠点だった。
 希望の党は、その欠点をそのまま引き継いでしまっているのではないか。
 
 希望の党の凋落は、「排除します」が原因ではない。
 排除しますと言いながら、排除しきれなかったことが原因だ。


posted by 平野喜久 at 21:50| 愛知 ☔| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月24日

麻生氏の武装難民射殺発言:曲解による反発がひどい

 また、麻生太郎副総理の発言が注目されている。
 23日の宇都宮市での講演。
 北朝鮮有事に関して武装難民が上陸してくる可能性に触れ、「警察で対応できるか。自衛隊、防衛出動か。じゃあ射殺か。真剣に考えた方がいい」と発言した。
 この発言に対して、曲解に基づく過剰反応が起きている。

 真っ先に飛びついたのは朝日新聞。
 ウェブ上のニュースサイトでは『麻生副総理「警察か防衛出動か射殺か」 北朝鮮難民対策』というタイトルを付け速報した。
 「北朝鮮難民」という言葉を使って、まるで麻生氏が「北朝鮮からの難民を射殺せよ」と言っているかのような見出しになっている。
 その後、読者から問い合わせや抗議の声が殺到したらしい。
 数時間後には、「武装難民対策」という正しい言葉に修正された。
 
 この朝日新聞の速報は、ネット上で拡散した。
 まもなく、「難民」「射殺」という単語に脊髄反射したような言論がネット上で散見されるようになった。
 いずれも、「麻生氏が難民を射殺せよと発言した」という前提の批判だ。
 だが、これらの批判は、曲解であることは明らかだ。
 麻生氏は、「一般の難民を射殺せよ」とは言っていない。
 もっと厳密に言えば、「武装難民を射殺せよ」とも言っていない。
 「北朝鮮の体制が崩壊した時、難民が押し寄せてくる。その中に、難民を偽装した武装集団が紛れ込んでいたらどうするのか」という問題提起をしているに過ぎない。
 これは、文脈をよく確認すれば、すぐに分かること。
 この問題提起は、現実に起こり得ることであり、安全保障上、極めて対応が難しくかつ重要だ。

 麻生氏の発言に反発しているサヨクメディアやサヨク言論人は、現実を直視せず、単に観念的な言葉に反応しているだけであるのは明らか。
 彼らに共通するのは、勢いよく批判はするが、ならば実際にどうすべきなのかについては何も考えがないこと。
 麻生氏の「武装集団が難民に偽装して上陸してきたらどうするのか」という問題提起に何も答えることができていない。
 今回の麻生氏の発言に驚くとしたら、こんな大事な話が、まだ何も話し合われていなかったことに対してではないのか。
posted by 平野喜久 at 15:02| 愛知 ☁| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月07日

優性を顕性に:専門用語の言い換え

 朝日新聞の報道による。
 「優性遺伝」「劣性遺伝」という言葉が使われなくなりそうだ。
 誤解や偏見につながりかねなかったり、分かりにくかったりする用語を、日本遺伝学会が改訂。
 用語集としてまとめ、今月中旬、一般向けに発行する。

 遺伝学の訳語として使われてきた「優性」「劣性」という言葉。
「優性」は「顕性」「劣性」は「潜性」と言い換えることになる。
 もともと「優性」「劣性」は、遺伝子の特徴の現れやすさを示すにすぎないが、優れている、劣っているという語感があり、誤解されやすいためだ。
 
 他にも、「バリエーション」の訳語の一つだった「変異」は「多様性」に変更される。
 遺伝情報の多様性が一人一人違う特徴となるという基本的な考え方が伝わるようにするのが目的。
 色の見え方は人によって多様だという認識から「色覚異常」や「色盲」は「色覚多様性」となるらしい。

 中学校で習う遺伝法則。
 優性遺伝、劣性遺伝という言葉は、その概念をイメージしやすく分かりやすい専門用語だった。
 だが、分かりやすいというのは、一方では、誤解しやすいという側面があり、その弊害を除去しようというのが今回の提案なのだろう。
 「けんせい」「せんせい」では、耳で聞いただけでは文字を想起しにくく、非常に分かりにくい。
 この分かりにくいというのがポイントだ。
 ストレートに分からないようにイメージをぼかすことで、感覚的に誤解してしまう恐れを排除している。
 
 一般に使われるようになった専門用語が、後に別の表現に変更される例は多い。
 「精神分裂病」は、いまでは「統合失調症」と言い換えられた。
「禁治産者」は、「成年被後見人」と言い換えられた。
 「色盲」という言葉は、「色覚異常」と言い換えられてきたが、それでも誤解の可能性ありということで、今回、「色覚多様性」への変更が提案されている。
 言葉にまとわりついている価値判断を伴うイメージを、極力そぎ落とそうという工夫の跡が見える。
 
 ビジネス用語では「差別化」という言葉がある。
 他社との違いをはっきりさせ、競争優位を獲得しようとするときに使われる言葉だ。
 だが、この言葉も消滅の危機に瀕したことがあった。
 「差別」という言葉に敏感に反応してしまう人がいるのだ。
 それで、一時、「差別化」を「差異化」に言い換えようという動きが見られた。
 一部の経済紙は、この言い換えに積極的だった。
 ところが、この言い換えは定着することがなかった。

 「差別化」という言葉は、定義のはっきりした学術用語ではないこと。
 「差別化」を使う場面で、人種差別のようないわゆる「差別」を意識させる使い方をする人が存在しないこと。
 「差異化」という言葉を使い始めたことで、「差別化」とは別の概念を持つビジネス用語が登場したと誤解する人が増えたこと。
 コンサルの中には、「差異化」と「差別化」の意味の違いを無理に定義づけして、教えを垂れようとする人まで出てくる始末だった。
 これらの理由で、「差異化」への変更はうまくいかなかった。
 「差別化」への攻撃は、単なる言葉狩りということが誰の目にも明らかだったということだろう。




posted by 平野喜久 at 10:02| 愛知 ☁| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月26日

映画「関ケ原」鑑賞雑感

 映画「関ケ原」を鑑賞。
 その雑感。ネタバレを含む。
 期待が大きすぎたせいか、がっかり感が強い。
 司馬遼太郎の「関ケ原」を映画化するという話を知った時、いやな予感がしていた。
 原作は上中下に分かれた長編歴史小説。
 原作の世界観をそのまま2時間余りの映画にまとめるのは不可能だ。
 当然、端折った内容にならざるを得ない。
 細かいエピソードは省略されるだろうが、主要な場面はじっくり映像化されるものと思っていた。
 だが、有名な場面は、この映画ではことごとく端折られていた。
 三成と大谷の友情、直江状、内府違いの条々、小山評定、伏見城の戦い、上田城の攻防、宰相殿の空弁当、島津の敵中突破、などなど。
 個別エピソードが省略されていただけではない。
 主要テーマの、なぜ家康と三成が戦うことになったのか、というところから意味が分からない。
 いつの間にか敵対し、全国の武将が2軍に分かれて衝突することになってしまっている。
 全国の武将が、東西に分かれていく過程にダイナミックなストーリーが展開するのだが、それらはまったく描かれない。
 忠臣蔵の映画で、上野介の嫌がらせや松の廊下の場面が省略されているような感じだ。
 
 同じく司馬遼太郎の「関ケ原」を原作にしたTBSのドラマはいまでも評価が高い。
 こちらは、原作に忠実に映像化している。
 これを意識しすぎたために、まったく違う作品を作ろうとして、このような映画になったような気がする。
 TBSドラマでじっくり描かれた場面は省略し、ドラマで省略された場面を重点的に取り上げたのではないか。
 それで、関ケ原の名場面が少しも出てこない映画作品となったのかもしれない。
  
 戦闘場面はいままでにない迫力があった。
 関ケ原らしい地形を感じさせる場所での撮影は、リアリティがあった。
 特に、狭い小道に大群が流れ込んで、過密状態の中で両軍がぶつかり合う姿は、いままで見たことがない光景だった。
 関ケ原での戦いは、まさにこの通りだったのだろうと思わせる。
 
 だが、戦闘開始してからの戦況の揺れ動きがまったく描かれない。
 ひたすらいろんな部隊がぶつかり合っているだけで、どことどこが戦っているのかまったく分からない。
 どちら側が優勢で、どちらが追い込まれているのかも分からない。
 本当なら、この戦闘シーンが映画のクライマックスで、手に汗握る場面にならなければならないのに、その緊迫感がないのだ。
 
 ロケ地はいろんなところで行なわれたようだ。
 歴史的建造物を舞台に撮影が行われていて、映像に独特の風格を与えている。
 伏見城などCGによる映像も見どころだ。
 
 秀吉の名古屋弁もすばらしい。
 百姓出身の秀吉らしい言葉遣いと話し方。
 今まで見た映像作品の中で、もっとも秀吉らしいと感じた。

 家康は、いままでの映像作品の中では、もっともイメージから遠い。
 策略家の狸おやじのイメージがない。
 別所は家康というより、武田信玄か前田利家のイメージだ。
 別所が演じた過去の作品イメージがよみがえってくる場面があり、興ざめ。
 家康の肥満体を表現するために、ふんどし姿にして無理やり太鼓腹を見せていたのが違和感。
 
 岡田の三成もイメージからは遠い。
 岡田の演技の幅が狭いせいか、官兵衛や永遠のゼロのイメージがよみがえってしまう。
 
 小早川の裏切りの場面は、原作を改変している。
 本人は三成に味方するつもりだったのに、部下の突き上げで心ならずも家康側に寝返ることになってしまったという設定になっている。
 家康による問鉄砲の場面もない。
 最近の歴史研究の成果を反映させているのか。
 
 TBS「関ケ原」、NHK「葵徳川三代」と比較しながら、楽しむには興味深い作品か。

posted by 平野喜久 at 22:34| 愛知 ☁| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする