2017年12月11日

NHK受信制度の問題点が浮き彫りに:最高裁判決

 NHK受信料支払い訴訟。
 最高裁まで争われ、12月6日に判決が出た。
 報道の見出しは、「NHK受信制度は合憲」というもので、NHK全面勝訴のようなイメージで伝えられているが、判決文をよく読むと、様子はまったく違う。
 この訴訟は、そもそも違憲か合憲かで争われたものではない。
 未契約者がNHKから訴訟を起こされ、その抗弁の中に「契約強制は契約の自由に反し違憲だ」という主張があったため、その点がクローズアップされたものだ。
 今回の最高裁判決が出る前に、総務省からも法務省からも意見書が提出されたらしい。
 現在の受信制度に問題はないという趣旨の内容だ。
 最高裁で受信制度が違憲との判決が出てしまうと、社会的な混乱が避けられないことから、念のためにくぎを刺しておいたということだろう。
 だから、今回の最高裁判決で、合憲との判断が示されるのは見えていた。
 今回の訴訟の本質は、こんなところにはない。
 NHKの受信制度のあり方そのものが問われていたというべきだろう。

 判決文の冒頭には主文が書かれている。
「主文:本件各上告を棄却する。各上告費用は各上告人の負担とする」
 この上告人とはNHKのことだ。
 これでNHKの訴えが退けられたことが分かる。
 NHKの訴えは何だったのか。
「NHKが未契約者に契約を申し込んだ時点で受信契約が成立する」というものだった。
 これに対して判決では、「NHKが未契約者を相手取って裁判を起こし、勝訴判決が確定した時点で契約が成立する」という判断を示した。
 NHKとしては、未契約者に契約要請の案内を送れば自動的に契約成立にしたい。
 その判断を最高裁に求めて上告していたのだ。
 だが、これはさすがにNHKの身勝手すぎた。
 さらに判決では、「受信料は、テレビ設置時にさかのぼって請求できる」とし、契約前の債務については、5年という時効は適用されないとした。
 内容としては、いままでと違う見解が示されたわけでもなく、受信制度の運用に影響を及ぼす点はほとんどない。
 ただ、今回最高裁で初めて判断が示されたことで、報道でもトップニュースとして扱われ、NHKの受信制度のあり方について国民の関心をもたらすことになった点は大きい。

 この判決文で読むべきは、後半に出てくる木内裁判官の反対意見だ。
 ここには、様々な問題提起がなされており、NHK受信制度の不備を的確に指摘している。
 
1.意思表示の内容
 判決は、NHKが訴訟を起こし判決が確定した時に契約が成立すると判断したが、木内裁判官は「判決で意思表示を債務者に命ずることはできない」としている。
 成立する契約の内容が特定しないまま、承諾だけが強制されることはあり得ない。
 NHKとしては、結果として契約しなければいけないのだから、内容がどうであれ、契約の承諾だけを裁判所が強制してくれればOKとしたいところだが、内容が決まっていないのに債務者の意思表示を判決が代行できるはずがない。
 
2.契約義務者の特定
 同一住居に何人住んでいても、1契約になるが、いったい誰に契約義務があるか不明。
 戸籍上の世帯主か。
 一番収入の多い人か。
 テレビを買って設置した人か。
 それとも、たまたまその場に居合わせ契約書にサインした人か。
 これは法律にも規約にも書かれていない。
 これも裁判で確定させるのか。
 そもそも、NHKが未契約者を相手に裁判を起こすとしても、誰を対象にするのだろうか。
 裁判してみないと義務を負うものが誰か分からないような制度で、契約の義務を求めるのは酷だ。

3.契約の成立と支払い義務の始点
 裁判所の判決で契約の成立が決まるが、テレビ設置の時点までさかのぼって契約成立することはない。
 支払いの義務は契約の成立をもって生じるものであり、契約が成立していない時期の分まで支払い義務が生じることはあり得ない。
 過去の一定期間に存在すべきであった受信契約の承諾を命じるというのは、過去に存在しなかった契約を後から判決が創作するに等しく、到底、なし得ることではない。

4.公平性と支払い義務
 今回の判決文では、テレビ設置時点から受信料債権が発生する理由として、受信料負担の公平性に求めている。
 しかし、放送法では、受信契約の義務を定めてはいるが、受信料の支払い義務については定めがない。
 裁判所は契約承諾の意思表示を命じることができたとしても、契約の存在しなかった過去の受信料支払いまで命ずることはできない。

5.時効消滅
 判決文では、契約者の時効は5年だが、未契約者については時効消滅する余地がないとの判断だ。
 理論上は、50年間の未契約だった場合でも、裁判に勝訴すれば、全期間の受信料を徴収できることになる。
 だが、通常の、不法行為による損害賠償義務でも20年、不当利得による返還義務でも10年の経過で消滅する。
 受信料支払いだけ、時効消滅することのない債務負担を強いる理由はない。
 

 昭和25年に成立した放送法をそのまま現代に通用させようとすること自体に無理がある。
 全世帯に多大な負担をかけ地デジに移行したのは何のためだったのか。
 NHKのスクランブル化で、受信料負担の不公平感は一気に解消する。
 NHKの集金人が戸別訪問して契約促進にかけているコストが年間700億円を超える。
 なんと受信料収入の10%を集金コストにかけてしまっているのだ。
 スクランブル化で、このコストはいっぺんに不要になる。
 テレビを持たないものがしつこい集金人の訪問に不愉快な思いをすることもなくなる。

 スクランブル化は、技術的にはなんら問題はなく、コストもかからない。
 スクランブル化の声は国民から上がっているが、政治のステージにまで届いていない。
 マスコミもあまり踏み込まない。
 一度、NHKの受信制度について世論調査をしたらどうか。
 スクランブル化に反対する国民はいないだろう。
 
 電気料金の支払いが滞ったら、文書で事前通達の後、指定期日に容赦なく供給が遮断される。
 現代社会で電力供給が絶たれるのは、最低限の生活維持すら不可能になるぐらいの強制措置だ。
 場合によっては命の危険さえ伴うかもしれない。
 しかし、この電力会社の措置が問題視されたことはない。
 みんなが納得しているからだ。
 NHK受信料も、これと同じでいいのではないか。
 未契約や不払いについては、スクランブルで受信不能にする。
 こうすることで、受信制度に対する国民の信頼度は格段に上がる。
 NHKの存在意義を理解している人ほど、このスクランブル化を支持するのではないだろうか。
 NHKはスクランブル化を拒否し、ひたすら現状維持を求めている。

 個人を相手に大組織のNHKが裁判を仕掛け、勝訴の実績作りに精を出す。
 集金人も最後の捨て台詞は「そんなことだと裁判になるぞ」だそうだ。
 国民に恐怖感を抱かせ契約を迫る。
 それほどまでして、現状を維持したいNHK。
 いったい、何を恐れているのだろう。







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2017年12月06日

東レ子会社データ改竄問題:経営者の感覚のズレ

 東レ子会社の品質データ改ざん問題。
 東レ社長は、16年10月に不正を把握していたが、発表が1年以上遅れた。
 神戸製鋼、三菱マテリアルなど、素材メーカーによる品質偽装が次々に発覚する中、11月3日にネット掲示板に、次のような書き込みが行われた。

「東レのタイヤコード、産業用コードを生産するグループ会社にて顧客に提出する検査データを改ざんしていた。

 顧客と取り決めていた規格値に対して、実際には規格を満たしていないにも関わらず検査データを改ざんし、規格を満たしているかのように偽り、顧客へ納入していた。

 不正は10年前から行われており、品質保証部門の管理職が主導して改ざんに関わり組織的に不正を行っていた。」

 匿名の投稿であり、情報源も定かではない。
 普通なら、よくある「釣り」と言われるフェイクニュースとして立ち消えになってしまうような情報だった。
 ところが、これについて実際に東レに問い合わせた株主がいたらしい。
 それで、ネット上に不正情報が拡散し始めていることを知る。
 あらぬ噂が広がる前に、正確な情報を公表した方がよいと判断し、このたびの謝罪会見となった。
 一見、フェイクニュースと思われたネット上の書き込みが、図星だったわけだ。

 当初は、この不正を公表するつもりはなかったと、東レ社長は会見で言い切った。
 法令違反があるわけでもない。
 安全上の問題があるわけでもない。
 顧客も了承の範囲であり何ら問題はない、との判断だ。
 つまり、東レ社長の言い分は、「確かにデータの書き換えは行なわれていたが、それは形式上の問題であり、実質的な問題は何も起きていない」ということなのだろう。

 ところが、実態は、顧客の了承は取り付けていなかった。
 当初は、基準値を下回る製品については、「トクサイ」として顧客に説明を事前了承を得たうえで納品していた。
 それが慣例化し、いつのまにか、いちいち説明をしなくても、了承を得なくても、基準値以下の製品をそのまま納品するようになってしまった。
 その時、データ表示を基準値をクリアしているかのように書き換えていたというのだ。

 東レ社長の認識と、私たち一般が感じる認識との間に大きな隔たりを感じる。
 データ改竄は、単に書類上の数字が違っていただけの手続き上のミスで、実質的な影響は何もない、というのが東レ社長の認識。
 わざわざ公表して、自分から騒ぎを持ち掛けるほどの話ではないと感じているようだ。
 だが、少し基準に満たない製品を納品してました、という単純な問題ではない。
 基準を満たしていないにもかかわらず、満たしているかのようにデータを偽装するという行為は、明らかに一線を越えた不正の領域だ。
 ここが不正行為として問題視されているのだ。

 もともと基準値が不必要にハイレベルで、それを守っていたら過剰品質に無駄なコストをかけるだけという問題があったのなら、その基準値の見直しを優先して取り組むべきところだ。
 顧客との話し合いで、現実的な安全基準について話し合い、妥当なレベルまで落とせばいい。
 それを行なわずに、自社の都合で「ここまでだったら大丈夫」と勝手な安全レベルを設定していたとすると、問題は大きい。
 これは、品質基準を形骸化させる行為だからだ。
 しかも、データをこっそり書き換えるというのは、騙そう、ごまかそうという行為であり、これはどんな言い訳でも正当化できない、明らかな不正行為だ。
 とても、これでは取引先と信頼関係を維持できない。

 今回の不正で、取引先がどう受け止めているかは不明だ。
 実質的な損害や不具合が発生していない以上、この問題が賠償責任や取引停止にまで発展する可能性は低い。
 
 かつて、日本のモノ作りは品質の高さが信頼の証だった。
 製品検査でも、現実にはあり得ないような過酷な条件下で何度もチェックを繰り返し、少しでも不安のあるものは出荷しないという姿勢を貫くことで、信頼を得てきた。
 世界の製造業関係者が日本のモノづくりの強さの秘密を知ろうと現地視察に訪れたとき、過剰なまでの品質へのこだわりに舌を巻いて「これではかなわないはずだ」と納得して帰っていった。
 それが、いまやどうだ。
 コスト重視、効率重視が最優先になり、品質の日本ブランドは崩壊寸前だ。

 このような品質データの改竄は、いまやどの製造現場でも習慣として常態化してしまっているのではないか。
 かつて、あるレストランにおける食材の偽装表示が発覚した時、その他の高級レストランや高級料亭でも同様の偽装が見つかり、次々と謝罪に追い込まれたことがある。
 素材メーカーの品質偽装は、しばらく発覚が続くのかもしれない。
 
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2017年12月05日

TBSドラマ「陸王」

 TBSのドラマ「陸王」が高視聴率で続いているらしい。
 「半沢直樹」で大当たりとなった池井戸潤氏の作品。
 「ルーズベルトゲーム」「下町ロケット」に続き、同じようなビジネスドラマだ。
 非常に硬派なストーリーで、ビジネスの成功物語だけに焦点を当てている。
 零細企業の経営者のストーリーで、一般の人には感情移入しにくい面があるが、流れを単純にし、ロマンスなど余計な要素を排除して、分かりやすくしている。
 連続ドラマは、登場人物を複雑に絡ませたり、複数のストーリーを同時進行させて幅を広げたり、謎の人物を登場させて先を読みにくくしたりと、いろいろな仕掛けを作るのが通例だ。
 だが、池井戸ドラマは、全くコンセプトが違う。
 むしろ、ストーリーが単純すぎるために先が見える。
 その見えている先の展開を期待させるような仕掛けになっている。
 視聴者は、最後の零細業者の大成功を期待している。
 ちょうど、主人公の経営者と同じ夢を見ながら視聴することになる。
 基本的に男の世界の物語。
 女性も登場するが、すべて補助的な役割しか担うことがない。
 これも、最近のドラマにしては珍しい。
 
 キャスティングも秀逸。
 主人公の足袋製造会社社長の宮沢役:役所広司。
 さすがにベテランの演技力で、見るものを引き付ける。
 本物の零細企業の社長に見える。
 寺尾聡は重要特許を持つ元経営者の役だが、従来とは声色まで変えて、武骨な職人気質を見事に演じている。
 ヒール役として登場するピエール瀧。
 いままでの役柄とは違う憎々し気な表情作りに苦労している様子。
 その他、お笑い芸人が多数出演しているのも特徴。
 普段はおちゃらけイメージの芸人を、敢えてシリアスな役どころに充てているようだ。
 歌舞伎役者、スポーツキャスタ、エッセイストも役者として登場する。
 全キャストが同じストーリーの流れの中に乗っているので、違和感を覚える間もない。

 ストーリーは、いつもの池井戸作品のように、経営の視点で見たときにいたるところに違和感がある。
 この「こはぜ屋」という会社、まったくまともな経営ができていない。
 すべてが、社長の思い付きと行き当たりばったりで進んでいる印象。
 昔ながらの稼業レベルの経営しかできておらず、とてもランニングシューズで新規事業に進出できる体制ができているように見えない。
 銀行が融資を渋るのも当然だ。
 第7話では、アッパー素材のメーカーの裏切り、シルクレイ製造機の火災で窮地に陥る。
 こんなことで窮地に陥ってしまうようなビジネスをしているようでは、経営者失格。
 そんな重要な機械に保険をかけていなかったのか。
 横山顧問が作った機械は試作機のようなもので、これで量産体制に対応するのはもともと無理があったはず。
 既に「足軽大将」というシルクレイを使った地下足袋の製造販売が始まっていたが、それをこんな試作機一台ですべて賄うのは不可能。
 足軽大将の製造の段階で、まず設備投資が必要になったはず。
 現実には、「こはぜ屋」の戦略としては、商品開発と品質管理に特化し、量産品の製造は外部委託の形をとるの通例だ。
 
 次回以降では、フェリックスという外資系企業から買収の話が舞い込むらしい。
 これがどのように展開していくのか注目だ。


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2017年11月18日

初動対応のミス:完成車両検査不正問題:日産自動車

 日産自動車は17日、資格のない従業員に完成車両の検査をさせていた問題で、不正の実態や再発防止策をまとめた調査報告書を国土交通省に提出。
 同日、西川社長が会見を開き、「日産に対する信頼を裏切り、改めて深くお詫びしたい」と謝罪した。

 この検査不正の問題は、9月18日に国交省の立ち入り検査で発覚した。
 29日に日産が不正を発表。
 10月2日に西川社長が会見。
 6日に116万台のリコールを国交省に届け出。
 このような初動だった。

 ところが、問題が大きくなったのは、この後だ。
 10月11日になって、社内で無資格検査を続行していたことが発覚したのだ。
 2日の社長会見では、はっきりと「検査員による正式な検査体制に切り替えた」と述べていた。
 だが、それは社長の口先だけの言葉でしかなく、現場はまったく変わっていなかった。
 ここで、経営トップと現場との断絶が露呈した。
 これを受けて、国内全6工場での出荷停止に追い込まれた。
 11月7日に順次、生産と出荷を再開したが、業績の下方修正は免れない。
 弁護士を中心とする調査委員会による報告書の提出を機に、西川社長の謝罪会見となった。

 今回の日産自動車の不正問題。
 初動対応にミスがあった。
 当初、この問題は内部告発により国交省が動き出したらしい。
 国交省の立ち入り検査の際に、関係書類を削除したり無資格検査員を現場から遠ざけたり、隠蔽工作をしていたという。
 国交省による立ち入り検査から日産が不正発表まで、11日も時間がたっていた。
 社内調査に手間取ったというより、この問題をいかに穏便にやり過ごすかというところで逡巡していたというのが実態だろう。
 9月29日、日産が初めて不正を発表した会見に臨んだのは、「グローバルコミュ二ケーション本部ジャパンコミュニケーション部長」「企画・管理部エキスパートリーダー」という肩書の人物だった。
 社長でも幹部役員でもなく単なる部長クラスだったのだ。
 現場の一部で問題があった程度の話で終わらせようとしていたことが分かる。

 10月2日になってようやく社長の会見となったが、これは謝罪会見ではなかった。
 もちろん、「お詫び申し上げます」という言葉はあったが、役員そろって深々と頭を下げる姿を見せることはなかった。
 そもそも、この会見は社長単独で臨んでいた。
 社長の簡単な受け答えで対応可能とみていたようだ。
 さらに、不正は認めたものの、「検査そのものは確実に行われていた。安心して使ってもらえないことは全くない」ということを強調していた。
 つまり、この不正は、資格があるかないかという単なる形式上の問題で、実態はしっかり検査は行われていたのだから大した問題ではないという認識だったのだ。
 だから、正式な謝罪をしなかったのだろう。
 新聞でも、「お詫び申し上げると陳謝した」と報道された。
 そう、謝罪ではなく、陳謝だったのだ。
 企業不祥事の会見で、陳謝で済んだ例は存在しない。

 かつて、食品偽装で問題が発覚した時、同じ言い訳でやり過ごそうとした企業があった。
 「表示は違っていたが、中身は同等の上質な食材を使っている」「おいしさや安全に問題はない」
 ただ原材料表示にミスがあっただけということで済まそうとした。
 だが、これは手前勝手な理屈であり、この姿勢がますます消費者の反感を買うことになった。

 日産では、10月2日の社長会見以降でも、現場では無資格者による検査が行われていることが発覚し、騒ぎを大きくした。
 社長は現場の実態を知らず、口先だけでこの問題をやり過ごそうとしていたことがばれてしまったのだ。
 ここでようやく経営トップがことの深刻さに気付き、問題に真剣に向き合い始めた。
 10月19日に社長会見。
 全工場での生産出荷停止を決断。
 問題発覚から1か月が経過していた。

 調査結果の報告を兼ねた今回の社長会見は、明らかな謝罪会見だった。
 記者の前で他の幹部とともに深々と頭を下げた。
 問題発覚から2か月が経過していた。

 企業の不祥事発覚で、一番大事なのは初動対応だ。
 ここで、きっちり対応できるかどうかで、その後のダメージの大きさが決まる。
 日産自動車は、これら過去の企業不祥事の失敗事例に学ばなかったのか。
 これほどの大企業になれば、それなりの危機管理アドバイザーがついているはずだが、彼らはいったい何をしていたのか。

 
 
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2017年10月15日

希望の党の人気凋落の原因は「排除します」ではない

 衆院選の真っただ中、序盤における情勢分析が各メディアから出ている。
 その内容を見ると、いずれも「与党優勢、希望伸び悩み」との結論となっている。
 一時は、台風の目となりそうとの観測もあった「希望の党」、途中で潮目が変わり、完全に風は凪いでしまったようだ。
 では、いつ潮目が変わったのか。
 メディアでは、代表の小池氏の「排除します」という発言をきっかけに民心が離れたと分析している人が多い。

 民進党が事実上解党し、全員が希望の党の公認候補として立候補するとの報道があり、そのことに対する小池氏の発言として飛び出した「排除します」という言葉。
 「民進党議員を全員受け入れるということはなく、希望の党と方向性の違う人は排除する」という意味であるのは明らかだ。
 民進党議員を全員受け入れていたら、希望の党は旧民進党の看板を掛け変えただけの政党になってしまい、新党の意味がない。
 そんなことができるはずもなく、そこには当然選別が行われなくてはいけない。
 その当たり前のことを小池氏は答えたに過ぎない。
 だが、「排除」という言葉が。民進党議員の不興を買った。
 小池氏の高飛車な態度に反発し、希望の党への入党を拒否する人が出てきて、一部の人たちが無所属での立候補を決めたり、立憲民主党という新党を立ち上げたりした。
 このあたりから、希望の党の人気が下がり始めたようだ。

 希望の党の人気凋落のタイミングとしては、「排除します」発言あたりからというのは間違いなさそうだ。
 しかし、「排除します」発言が民心が離れた原因であったと見るのは違うだろう。
 確かに、「排除」という言葉は強烈で、高飛車なイメージがある。
 だが、この強烈なメッセージで世論を味方につけるのは小池氏の真骨頂だ。
 過去の強烈メッセージは人気獲得に成功したが、今回だけは失敗したというのでは筋が通らない。
 この排除という言葉に反発したのは、元民進党議員だけだ。
 国民は、小池氏に排除されようとしているわけでもなく、この言葉に反発を覚えるはずがない。

 人気凋落の本当の原因は、小池氏の「排除します」発言にあるのではなく、「排除しますと言いながら、排除しきれなかったこと」にあるのではないだろうか。
 つまり、民進党のイメージが定着してしまっているような有名な議員は排除したが、それ以外の民進党議員の多くを受け入れてしまったことが、国民の不信感につながったのではないか。
 安保法案に反対し、議場でプラカードを掲げて審議妨害をし、強行採決の映像を撮らせていた元民進党議員たち。
 同じ人たちがこぞって従来の主張をひっくり返し、希望の党に鞍替えしているのだ。
 希望の党からの立候補者のうち、ほとんどが元民進党議員か元民進党候補予定者で構成されることとなった。 排除しますと言いながら、候補者数を確保するために、なし崩し的に受け入れてしまったという感じが否めない。
 これでは、民進党の亜流ができただけで、何も新しくない。
 最近は、小池氏も「安倍一強をなんとしても終わらせる」「モリだ、カケだ、忖度だ」と言い始め、愕然とした。
 これは、元民進党の言っていたことと同じだからだ。
 いろんな人を党内に抱え込んでしまったために、「反安倍」でしかまとまれなくなっているように見える。
 政策提言ができず、「反安倍」でしかまとまれないというのは、旧民進党の欠点だった。
 希望の党は、その欠点をそのまま引き継いでしまっているのではないか。
 
 希望の党の凋落は、「排除します」が原因ではない。
 排除しますと言いながら、排除しきれなかったことが原因だ。


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2017年10月05日

日本でも Prime Reading サービス始まる:Amazon

 Amazonは10月5日、Amazonプライム会員向けに、豊富な品揃えを持つKindle電子書籍の中から厳選された数百冊の書籍やマンガ、雑誌を追加料金なしで、好きなだけ楽しむことができる新サービス「Prime Reading」を提供開始したと発表した。
 アメリカAmazonでは昨年から先行してこのサービスが始まっていたが、日本でもようやく始まる。
 prime会員を増やすことが目的ではとみられている。
 読書好きにはうれしいサービスだ。
 いつでも好きな本を好きなだけダウンロードし、読み始めることができる。
 コストを考える必要がない。
 まるで、会員制の図書館を手に入れたようなもの。
 その図書館をデジタルデバイスに入れて持ち歩いている感じだ。

 本日、Amazonから、このPrime Readingの対象書籍に、私の発行している電子書籍が選ばれたとの連絡をもらった。

「ケーススタディ『八甲田山死の彷徨』〜名著に学ぶリーダーシップとリスクマネジメント」
https://www.amazon.co.jp/dp/B00CQBXRN8/

 実は、8月の段階で、Amazonから案内メールをもらっていた。
 新しいプロモーションサービスを開始するが、この書籍を対象に入れていいか、との問い合わせだ。
 と同時に、このサービス開始はまだ公表していないので、機密扱いにしてほしいとも書かれていた。
 はじめは、何かのスパムメールではと疑ったが、提案内容が具体的で、不特定多数に無作為にばらまいているような文面ではなかったため、信憑性が高かった。
 もちろん、プロモーションサービスを了承する旨を返信した。
 この新サービスがPrime Readingで、その対象に私の書籍が含まれていることを今日はじめて知った。

 この新サービスがどの程度の話題性があり、プロモーションに貢献するのか。
 興味深く注目したい。



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2017年09月24日

麻生氏の武装難民射殺発言:曲解による反発がひどい

 また、麻生太郎副総理の発言が注目されている。
 23日の宇都宮市での講演。
 北朝鮮有事に関して武装難民が上陸してくる可能性に触れ、「警察で対応できるか。自衛隊、防衛出動か。じゃあ射殺か。真剣に考えた方がいい」と発言した。
 この発言に対して、曲解に基づく過剰反応が起きている。

 真っ先に飛びついたのは朝日新聞。
 ウェブ上のニュースサイトでは『麻生副総理「警察か防衛出動か射殺か」 北朝鮮難民対策』というタイトルを付け速報した。
 「北朝鮮難民」という言葉を使って、まるで麻生氏が「北朝鮮からの難民を射殺せよ」と言っているかのような見出しになっている。
 その後、読者から問い合わせや抗議の声が殺到したらしい。
 数時間後には、「武装難民対策」という正しい言葉に修正された。
 
 この朝日新聞の速報は、ネット上で拡散した。
 まもなく、「難民」「射殺」という単語に脊髄反射したような言論がネット上で散見されるようになった。
 いずれも、「麻生氏が難民を射殺せよと発言した」という前提の批判だ。
 だが、これらの批判は、曲解であることは明らかだ。
 麻生氏は、「一般の難民を射殺せよ」とは言っていない。
 もっと厳密に言えば、「武装難民を射殺せよ」とも言っていない。
 「北朝鮮の体制が崩壊した時、難民が押し寄せてくる。その中に、難民を偽装した武装集団が紛れ込んでいたらどうするのか」という問題提起をしているに過ぎない。
 これは、文脈をよく確認すれば、すぐに分かること。
 この問題提起は、現実に起こり得ることであり、安全保障上、極めて対応が難しくかつ重要だ。

 麻生氏の発言に反発しているサヨクメディアやサヨク言論人は、現実を直視せず、単に観念的な言葉に反応しているだけであるのは明らか。
 彼らに共通するのは、勢いよく批判はするが、ならば実際にどうすべきなのかについては何も考えがないこと。
 麻生氏の「武装集団が難民に偽装して上陸してきたらどうするのか」という問題提起に何も答えることができていない。
 今回の麻生氏の発言に驚くとしたら、こんな大事な話が、まだ何も話し合われていなかったことに対してではないのか。
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2017年09月07日

優性を顕性に:専門用語の言い換え

 朝日新聞の報道による。
 「優性遺伝」「劣性遺伝」という言葉が使われなくなりそうだ。
 誤解や偏見につながりかねなかったり、分かりにくかったりする用語を、日本遺伝学会が改訂。
 用語集としてまとめ、今月中旬、一般向けに発行する。

 遺伝学の訳語として使われてきた「優性」「劣性」という言葉。
「優性」は「顕性」「劣性」は「潜性」と言い換えることになる。
 もともと「優性」「劣性」は、遺伝子の特徴の現れやすさを示すにすぎないが、優れている、劣っているという語感があり、誤解されやすいためだ。
 
 他にも、「バリエーション」の訳語の一つだった「変異」は「多様性」に変更される。
 遺伝情報の多様性が一人一人違う特徴となるという基本的な考え方が伝わるようにするのが目的。
 色の見え方は人によって多様だという認識から「色覚異常」や「色盲」は「色覚多様性」となるらしい。

 中学校で習う遺伝法則。
 優性遺伝、劣性遺伝という言葉は、その概念をイメージしやすく分かりやすい専門用語だった。
 だが、分かりやすいというのは、一方では、誤解しやすいという側面があり、その弊害を除去しようというのが今回の提案なのだろう。
 「けんせい」「せんせい」では、耳で聞いただけでは文字を想起しにくく、非常に分かりにくい。
 この分かりにくいというのがポイントだ。
 ストレートに分からないようにイメージをぼかすことで、感覚的に誤解してしまう恐れを排除している。
 
 一般に使われるようになった専門用語が、後に別の表現に変更される例は多い。
 「精神分裂病」は、いまでは「統合失調症」と言い換えられた。
「禁治産者」は、「成年被後見人」と言い換えられた。
 「色盲」という言葉は、「色覚異常」と言い換えられてきたが、それでも誤解の可能性ありということで、今回、「色覚多様性」への変更が提案されている。
 言葉にまとわりついている価値判断を伴うイメージを、極力そぎ落とそうという工夫の跡が見える。
 
 ビジネス用語では「差別化」という言葉がある。
 他社との違いをはっきりさせ、競争優位を獲得しようとするときに使われる言葉だ。
 だが、この言葉も消滅の危機に瀕したことがあった。
 「差別」という言葉に敏感に反応してしまう人がいるのだ。
 それで、一時、「差別化」を「差異化」に言い換えようという動きが見られた。
 一部の経済紙は、この言い換えに積極的だった。
 ところが、この言い換えは定着することがなかった。

 「差別化」という言葉は、定義のはっきりした学術用語ではないこと。
 「差別化」を使う場面で、人種差別のようないわゆる「差別」を意識させる使い方をする人が存在しないこと。
 「差異化」という言葉を使い始めたことで、「差別化」とは別の概念を持つビジネス用語が登場したと誤解する人が増えたこと。
 コンサルの中には、「差異化」と「差別化」の意味の違いを無理に定義づけして、教えを垂れようとする人まで出てくる始末だった。
 これらの理由で、「差異化」への変更はうまくいかなかった。
 「差別化」への攻撃は、単なる言葉狩りということが誰の目にも明らかだったということだろう。




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2017年08月26日

映画「関ケ原」鑑賞雑感

 映画「関ケ原」を鑑賞。
 その雑感。ネタバレを含む。
 期待が大きすぎたせいか、がっかり感が強い。
 司馬遼太郎の「関ケ原」を映画化するという話を知った時、いやな予感がしていた。
 原作は上中下に分かれた長編歴史小説。
 原作の世界観をそのまま2時間余りの映画にまとめるのは不可能だ。
 当然、端折った内容にならざるを得ない。
 細かいエピソードは省略されるだろうが、主要な場面はじっくり映像化されるものと思っていた。
 だが、有名な場面は、この映画ではことごとく端折られていた。
 三成と大谷の友情、直江状、内府違いの条々、小山評定、伏見城の戦い、上田城の攻防、宰相殿の空弁当、島津の敵中突破、などなど。
 個別エピソードが省略されていただけではない。
 主要テーマの、なぜ家康と三成が戦うことになったのか、というところから意味が分からない。
 いつの間にか敵対し、全国の武将が2軍に分かれて衝突することになってしまっている。
 全国の武将が、東西に分かれていく過程にダイナミックなストーリーが展開するのだが、それらはまったく描かれない。
 忠臣蔵の映画で、上野介の嫌がらせや松の廊下の場面が省略されているような感じだ。
 
 同じく司馬遼太郎の「関ケ原」を原作にしたTBSのドラマはいまでも評価が高い。
 こちらは、原作に忠実に映像化している。
 これを意識しすぎたために、まったく違う作品を作ろうとして、このような映画になったような気がする。
 TBSドラマでじっくり描かれた場面は省略し、ドラマで省略された場面を重点的に取り上げたのではないか。
 それで、関ケ原の名場面が少しも出てこない映画作品となったのかもしれない。
  
 戦闘場面はいままでにない迫力があった。
 関ケ原らしい地形を感じさせる場所での撮影は、リアリティがあった。
 特に、狭い小道に大群が流れ込んで、過密状態の中で両軍がぶつかり合う姿は、いままで見たことがない光景だった。
 関ケ原での戦いは、まさにこの通りだったのだろうと思わせる。
 
 だが、戦闘開始してからの戦況の揺れ動きがまったく描かれない。
 ひたすらいろんな部隊がぶつかり合っているだけで、どことどこが戦っているのかまったく分からない。
 どちら側が優勢で、どちらが追い込まれているのかも分からない。
 本当なら、この戦闘シーンが映画のクライマックスで、手に汗握る場面にならなければならないのに、その緊迫感がないのだ。
 
 ロケ地はいろんなところで行なわれたようだ。
 歴史的建造物を舞台に撮影が行われていて、映像に独特の風格を与えている。
 伏見城などCGによる映像も見どころだ。
 
 秀吉の名古屋弁もすばらしい。
 百姓出身の秀吉らしい言葉遣いと話し方。
 今まで見た映像作品の中で、もっとも秀吉らしいと感じた。

 家康は、いままでの映像作品の中では、もっともイメージから遠い。
 策略家の狸おやじのイメージがない。
 別所は家康というより、武田信玄か前田利家のイメージだ。
 別所が演じた過去の作品イメージがよみがえってくる場面があり、興ざめ。
 家康の肥満体を表現するために、ふんどし姿にして無理やり太鼓腹を見せていたのが違和感。
 
 岡田の三成もイメージからは遠い。
 岡田の演技の幅が狭いせいか、官兵衛や永遠のゼロのイメージがよみがえってしまう。
 
 小早川の裏切りの場面は、原作を改変している。
 本人は三成に味方するつもりだったのに、部下の突き上げで心ならずも家康側に寝返ることになってしまったという設定になっている。
 家康による問鉄砲の場面もない。
 最近の歴史研究の成果を反映させているのか。
 
 TBS「関ケ原」、NHK「葵徳川三代」と比較しながら、楽しむには興味深い作品か。

posted by 平野喜久 at 22:34| 愛知 ☁| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月09日

新人研修で精神疾患:ゼリア新薬

 読売新聞の報道による。
 ゼリア新薬工業の新入社員だった男性が、新人研修から帰宅途中で自殺。
 社員研修で人格を否定されるなどして精神疾患を発症したためだとして遺族が同社と研修会社を訴えた。
 1億5千万円の損害賠償を求めている。
 ゼリア新薬から研修を受託していたのは、「ビジネスグランドワークス」。
 
 男性は2013年4月10日〜12日に研修を受けた。
 この研修は、「意識行動変革研修」と呼ばれていたという。
 その中で、吃音を指摘されたり、過去のいじめを告白するよう強要されたりしたらしい。
 その後も、社内の研修が長期間に及び、5月18日、異常行動が見られたとして帰宅を命じられ、その帰宅途中で自殺。
 中央労基署は、研修による心理的負担で精神疾患を発症したと認定し、労災認定している。

 このニュースで驚いたのは、いまだにこの手の乱暴な社員研修を行なっているところがあることだ。
 一時は、「地獄の特訓」と銘打って、過酷な研修を請け負う業者が目立っていたこともある。
 また、そのような過酷な研修を社員の通過儀礼と位置づけ、「それを無事に乗り越えてこそ、我が社の一員」と堂々と表明している会社もあった。
 この手の研修は、「敬語の使い方」とか「電話の受け答え」など社会人としての基礎知識を習得するのが目的ではない。
 学生気分を払拭し、社会人としての厳しい心構えを身に着けさせることに重点が置かれている。
 だが、そのやり方は乱暴なもので、勝手な手法で行なわれているのが実態。
 心構えを叩き直すところに主眼があるので、場合によっては、人格にまで影響を及ぼすような研修になる。
 それも、短期間のうちに成果を出そうとするために、かなり危なっかしい強引なやり方になる。
 問題となった研修会社がどんなやり方をしていたのかは不明。

 ただ、よくある研修パターンは決まっている。
 まずは、いままでの自分を捨てさせる。
 自分を捨てるということは、自信も誇りも捨てさせるということだ。
 斜に構えて冷めた目で研修に臨んでいる参加者は、集中的にマークされる。
 はじめは反抗的な態度を取っていた者も、観念し、従順になる。
 研修会場では、完全に講師という独裁者と受講者という奴隷の関係が築かれる。
 そして、過去の自分のダメなところをみんなの前で徹底的に吐き出させる。
 自己反省が足りない場合は、執拗に責めたてられる。
 取り繕おうとしたり、弁解しようとすると、容赦ない暴言が飛んでくる。
 ここで、たいていの人は、自尊心がボロボロになる。
 そして、過去の自分が崩壊し、そのまっさらな地面に新しい人格を立ち上げていく。
 次に、どのような人間になるのかをみんなの前で誓わされる。
 中途半端な目標を掲げると、吊し上げを食らう。
 何度もダメ出しを食らいながら、涙ながらに必死で訴え、ようやく認められる。
 中には、研修の最後に達成感から感動の涙にむせぶ人もいるそうだ。
 入社式の時にぼーっとしていた新入社員が、研修翌日に出社した時、「おはようございます!」のあいさつから見違えるような変化を見せるのだという。

 ただ、この手の乱暴な研修は、参加者の人格にまで手を出すために、非常に危なっかしい。
 研修途中で脱落者が出るのはよくある話。
 脱落者と言えば、参加者に根性がなくて投げ出したという印象だが、中には、挙動不審に陥ったり、精神錯乱を起こして研修を続けられなくなったりという事例も含む。
 心理カウンセラーや、精神科医との連携など、万が一の時のケア体制ができていない。
 研修会社の勝手な理論でプログラムが組まれ、実施されている。
 ハードな研修が、精神や人格に及ぼす影響など慎重に検証されているとは思えない。
 研修講師の勝手な経験則で実施しているだけだろう。
 ちょうど、資格も知識もない人が、スポーツのトレーニング指導をしているようなものだ。
 勝手な経験則でハードなトレーニングをすると、運動理論や生命科学に反するようなことが平気で行なわれ、取り返しのつかない障害を負わせてしまうことがある。
 意識改革系の研修も同じだ。
 いつ事故が起きても不思議ではないし、問題が起きたときに適切な対処ができない危険も大きい。

 ところで、このようなハードな意識改革研修は、なぜいまだに行われているのか。
 それは、それなりに効果があるからだ。
 受講者の意識と行動に明らかな変化が起きる。
 いままで、ボソボソとしか話さなかった人が、突然、ハキハキと話すようになる。
 行動の鈍かった人が、てきぱき動くようになる。
 はたから見てもこの変化は劇的だが、本人自身が、生まれ変わったかのような感覚を実感する。
 これが、このハード研修の醍醐味だろう。
 ただし、短時間に変化した意識は、短時間で元に戻る。
 こうして、次第に普通の一般社員の中に溶け込んでいく。
 研修に実質的な意味があるのかどうかは、よくわからない。
 こんな研修を受けなかったとしても、職場で経験を積むうちに自然と社会人の心構えができていくものだ。

 つらい研修経験は、いつの間にか、過去の苦い思い出になる。
 この苦い思い出がただの笑い話で終わればいいが、いつまでも心の傷として残ったり、精神疾患にまで至ってしまうことがある。
 このリスクに気づくべき時だろう。



 
 
 

 
 
 
 
 
posted by 平野喜久 at 12:18| 愛知 ☀| Comment(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする