2017年01月11日

日韓併合前夜はこんな雰囲気だったのか:韓国政府が責任放棄

 今回の慰安婦像の設置は、民間団体が勝手にやっていることで、韓国政府が関与しているわけではない。
 しかし、総領事館前の公共の場所に民間団体が勝手な像を設置するという違法行為を放置しているとすれば、それは政府の責任となり、日韓合意違反となる。
 昨年末に総領事館前に慰安婦像が設置されたとき、一旦、行政措置として強制撤去された。
 ところが、市民団体からの猛烈な抗議に行政側が耐え切れず、一転、設置を黙認することになった。
 この市民団体の猛抗議で政治や行政の対応が動いてしまうところが韓国の実情だ。

 韓国政府は、「当該機関で判断すべき問題」として釜山市に責任を丸投げした。
 釜山市もだんまりを決め込んだため、世論の批判は釜山市東区長に集中した。
 釜山市東区長は、「慰安婦像の撤去は課長がかってにやったことで、私は一度も設置を拒否していない」と釈明した。
 東区長の釈明インタビューの場面が報道されているが、市民団体からの猛烈な抗議に怯えきっている様子が見える。
 政府が外交問題として責任ある対応をすることができず、地方行政に責任を丸投げ。
 釜山市長も東区長も責任を受け止めることができず、結果として、名も知らぬ課長の責任を押し付けるというところまで落ちてしまった。
 誰も責任を受け止める覚悟がないまま、重要案件が漂流し続けている。
 日本側の抗議と毅然とした報復措置によって、韓国政府も何らかの対応をせざるを得ないところに追い込まれている。
 大統領代行を務めるファン首相がようやく政府としての公式見解を発した。
「日韓両政府だけでなく、すべての当事者が、合意の精神を尊重して、関係発展のために努力することが必要だ」
 ほとんど効力のあるメッセージ性はないが、これが、韓国政府として意思表示できる限界のようだ。
 韓国外交部は、釜山市東区に慰安婦像を撤去するように働きかけているらしく、それに対して区長は反発をしている。
「いままで、責任を丸投げしておいて、いまになって撤去せよとは納得できない。撤去するなら自分でやってくれ」
 国内世論と日本との板挟みにあって、責任を押し付けあう姿が見える。
 10日には、韓国政府内で、少女像を設置した市民団体と日本政府が話し合って妥協点を模索することを求める声が出始めたという。
 もう韓国政府としては対処不能と投げ出した格好だ。
 日本政府が直接韓国世論に働きかけ、対処してもらうしか方法がないということだ。
 これは、日本政府に韓国の委任統治を願い出ているようなもので、事態は深刻だ。

 歴史を振り返ると、日韓併合前夜はこんな雰囲気だったのかと思わせる。
 日韓併合は、日本が無理やり韓国を植民地化したと思われがちだが、実態は、韓国側の要請と国際世論の後押しで日本が合邦に踏み切ったというのが実態らしい。
 この日韓併合は、当時の国際社会でも東アジアの安定に資すると受け入れられた。
 ちょうど、今と同じ状況だ。
 韓国政府が日本政府に韓国世論への対処を願い出る。
 アメリカが日本に対応を求め、日本政府が韓国の市民団体と協議の場を持つようなことがあれば、あの日韓併合の再来だ。
 日本は同じ轍を踏むことはないだろう。
 だが、韓国政府は同じ間違いに踏み込もうとしてしまっている。
 あの日韓併合は屈辱の歴史ではなかったのか。
 韓国内の市民団体との話し合いを日本政府に求めるなどというのは、屈辱以外の何物でもないはず。
 ここにこそ、韓国世論は猛反発しなければいけないのではないか。
 
 
 
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2016年12月29日

不正競争防止法違反:コメダ珈琲のそっくり店舗

 「コメダ珈琲」にそっくりの店舗でコーヒー店を経営していたマサキ珈琲店。
 コメダ側が店舗の使用差し止めの仮処分を求めたのに対し、東京地裁は申し立てを認める決定をした。
 マサキ珈琲は、当初、コメダへフランチャイズ加盟を求めたらしいが、それがかなわず、酷似した店舗を建設したようだ。

 マサキ珈琲店の店舗は、外観が一見コメダ珈琲店とそっくりな作りになっている。
 外観だけではなく、内装もそっくりで、更に、メニューの内容までよく似ているという。
 これは、誰が見ても意図的にまねたと判断できるレベルだ。
 消費者の誤認を招く恐れ十分で、不正競争防止法に違反するとして、使用差し止めの決定となった。

 この外観がよく似ていることをもって使用差し止めになるケースは珍しい。
 コメダ店舗が特別に特徴的な外観をしているわけではない。
 外観が意匠登録されているわけでもない。
 レンガ造りの店構えにすれば、外観のイメージはよく似たものになるのは当たり前。
 屋根の形だって、入口の形状だって、バリエーションが無限にあるわけでもなく、結果として似たものになったとしても不思議ではない。
 それに、よく似ているという判断も非常に主観的なもので、線引きが難しい。
 それで、たいていは、外観が似ている程度ではなかなか使用差し止めまではいかなかった。 
 ところが、今回は、フランチャイズ契約がならなかったことで、わざとそっくりな店づくりをしたという判断が加わったことが、最後の一押しになったようだ。
 たまたま似てしまったということではなく、「意図的に店舗イメージをパクった」と判断されたわけだ。

 それにしても、マサキ珈琲店の物まねぶりは常識を超えている。
 フランチャイズ契約を拒否された腹いせに嫌がらせをしているかのようだ。
 何の知恵も工夫もない。
 プライドがあれば、敢えてコメダに対抗できるイメージ戦略で、ビジネスにおいて勝負をかけるところだ。
 コメダ側としても、こんなタチの悪い者に絡まれて余計な労力を費やすことになり、いい迷惑だろう。






 

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将棋連盟の対応ミス:三浦九段の不正なし

 プロ棋士の三浦弘行九段が対局中に将棋ソフトを不正使用した疑い。
 日本将棋連盟が設置した第三者調査委員会は
「三浦九段が不正行為に及んでいたと認めるに足る証拠はないと判断した」
 と発表。
 一方、連盟が年内の公式戦への出場停止処分を下したことは「やむを得なかった」とした。

 今回の不正疑惑は、7月下旬からくすぶり始めていた。
 三浦九段が対局中に頻繁に離席し、時にその離席が長時間に及ぶことがあり、その不自然さから不正行為の疑いがもたれ始めた。
 8月には連盟が、不必要な離席を控えるように通達。
 10月には、対局場への電子機器の持ち込みを禁止する措置を決定した。
 ところが、三浦九段が竜王戦の挑戦者に決定したことから、対戦相手の渡辺竜王から連盟に問題提起が出された。
 渡辺竜王の問題提起は、週刊誌に取り上げられるところとなり、その発行を目前に連盟側は三浦九段の出場停止処分を決定。
 同時に、竜王戦の挑戦者を別に差し替えた。
 その後、第三者委員会を設置し、一か月にわたって調査をしたところ、三浦九段の不正を疑わせる根拠がないことが判明した。
 
 第三者委員会の調査によると、主に3点が指摘された。
1、30分に及ぶ離席はなかったこと
2.所有するスマホ等に将棋ソフトが存在しないこと。
3.将棋ソフトの手との一致率もそれほど高くないこと。

 映像解析から、小刻みな離席は確かにあったが、30分にも及ぶ離席はなかったという。
 30分の離席は、対戦相手から訴えられていたものだが、そもそも、疑いのきっかけと思われていた事実から違っていた。
 それに、将棋ソフトの手と不自然なほど一致していることも指摘されていたが、実際にはばらつきがあり、一致率が高いと言っても、他の棋士でもソフトと手が一致するケースはよくあることと判断された。
 特に、終盤になると勝ち筋は一本道になるので、実力のある棋士であれば将棋ソフトの手と一致するのはむしろ当たり前と言える。
 不正を疑う者の中には、人間では考えられない手を打っており、この不自然さはプロでなければわからない、と言っているものもあった。
 だが、これはかなり乱暴な見解だ。
 「実力のある自分が見て不自然な手は不正によるもの」という決めつけは、あまりにも傲慢だ。
 
 ここで問題は、対戦相手の渡辺竜王が三浦九段の不正を決めつけ、連盟に直訴したことではない。
 直訴を受けた連盟側の対応に問題がある。
 きっちりした調査もしないまま、三浦九段の出場停止を決めてしまったことだ。
 なぜ、これほど処分を急いだのか。
 それは、週刊誌報道が目前に迫っていることを知ったからだ。
 竜王戦の開幕後に週刊誌が発行されると、大問題になり、竜王戦の中止に追い込まれるかもしれない。
 それを恐れた連盟が、急いで挑戦者の差し替えを行い、竜王戦の無事な開催を優先させたのだ。
 週刊誌は、騒動が大きくなることを目的として、竜王戦開幕後の記事発表を仕掛ける。
 その記事発表は事前にリークし、騒ぎを大きくしておき、記事への注目度を最大に高めたところで週刊誌の売り上げ拡大を狙う。
 連盟は、その週刊誌の策略に乗せられてしまった格好だ。
 連盟は、自らの保身のために、三浦九段の棋士生命を犠牲にしたことになる。
 
 連盟がこれほど神経質な対応になっている背景には、将棋ソフトの実力がプロ棋士をしのぐほどになってきたことがある。
 人間では思いつかない手を打つと「これはソフトを使って不正を行なった結果だ」との疑惑が同じプロ棋士から上がる。
 これは、プロ棋士事態が、自らのプロ将棋の世界を貶めているように見える。
 いったいプロ棋士とは何か、というところが揺らぎ始めているのだ。
 今回の将棋連盟の杜撰な対応は、連盟自体の信用度を下げたが、同時にプロ将棋の世界のイメージダウンももたらした。
 将棋の公式戦はスポンサーの支えがあって、維持できる。
 スポンサーの支えは、国民世論の動向次第。
 国民の理解の得られないイベントはスポンサー離れを起こす。
 

 第三者委員会は、出場停止処分はやむを得なかったとの判断をつけたしている。
 これは、調査委員会としては言い過ぎだ。
 調査委員会は不正の有無の調査を依頼されているだけで、連盟側の処分の是非まで問われていない。
 
 、
 
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2016年12月28日

第2回認証団体公表:レジリエンス認証

 内閣官房「国土強靭化貢献団体の認証に関するガイドライン」にもとづく第2回レジリエンス認証取得団体が公表された。
 今回の認証団体は。20団体。
 第1回が44団体だったから、半分以下に減っている。
 製造業7社、建設業3社、卸小売3社など、業界は多岐にわたる。
 団体名を見てみると、有名な大企業が目につく。
 第1回の時と同じだ。
 これは、申請企業が大企業に偏っているためだろう。
 認証団体が半数以下に減少したのも気にかかる。
 レジリエンス認証の認知度が低く、申請件数が減っているからか。
 それとも、申請数は増えていても、認証レベルの団体が少なくなっているためか。

 私が顧問をしている企業も今回のレジリエンス認証に申請し、無事に認証取得にい成功した。
 従業員数100名に満たない中小企業だが、社長のBCPへの取り組み意欲が高く、社内を挙げて取り組んでいる。
 せっかくの取り組みを形に表すため、この成果をレジリエンス認証に挑戦したらどうかと提案した。
 申請書類の作成や、第2次審査の社長ヒアリングの対策などお手伝いをさせていただいた。
 取り組みの実態をありのままに見ていただくという方針のもと、審査に臨んだが、特に厳しい指摘や質問を受けることもなくクリアできたようだ。
 このレジリエンス認証は、厳しく審査して落とすことを目的としたものではなく、BCPの普及のために、まじめに取り組んでいる企業は積極的に応援していこうというところに主眼がある。
 だから、中小企業の実態にあった審査が行われ、地道な活動実績が認められ認証取得となったものと思われる。
 
 実は、第1回の認証団体を見ると、東京の大企業ばかりが名を連ねているので、少し不安になっていた。
 もしかしたら、大企業の先進的な取り組みしか認めないのではないか。
 大企業と同じ基準で中小企業も審査しているのではないか。
 だが、それは全くの杞憂だった。

 レジリエンス認証は、BCPにまじめに取り組んでいることを第三者の目で認めてもらう制度だ。
 BCPに取り組んでいる企業は増えてきたが、それがまともな内容なのかどうかは、よくわからない。
 取り組んでいる当事者もこれでいいのか分からないし、ましてや、取引先など社外の人間には、その会社のBCPがまともなものかどうか確かめようがなかった。
 それが、この認証取得に挑戦することで、BCPに取り組む場合の目指すべきレベルがはっきりわかるし、客観的にもその会社のBCPがどのレベルにあるのかが分かるようになった。
 第1回のレジリエンス認証取得団体に認定されたある中小企業は、この認証マークをさっそく会社のPRに使っている。
 名刺、パンフレット、ウェブサイトなど、あらゆるところに掲示し、我が社のBCPをアピールしている。
 別途、印刷冊子を用意し、問い合わせがあれば、直ちにそれを渡せるように準備しているという。

 このレジリエンス認証は、特別に難しいことを求めていない。
 まじめにBCPに取り組んでいる企業であれば、十分認証取得できる。
 ただし、そこには明確な審査基準が設けられており、その基準に満たないものは厳しく排除されるようだ。
 審査基準は単純だ。
 防災とBCPの違いを理解していること。
 BCPの内容を経営トップが理解し、率先して推進していること。
 事前対策、教育訓練、見直し改善が行なわれているか。
 このあたりが重点的にチェックされる。
 まじめに取り組んでいる企業にとっては、何も難しいことはない。
 ありのままを見てもらえれば、簡単にクリアできる。

 しかし、取り組み方が間違っている企業はクリアは難しい。
 例えば、防災とBCPを混同して取り組んでいるケース。
 部下に丸投げで、社長がBCPを理解していないケース。
 とりあえずBCP文書は作ったが、これに基づいた活動実績がないケース。
 これらの場合は、書類審査の段階で厳しい指摘を受けることになる。

 この認証制度の目的や意義を理解しないままの申請して認証取得にいたるのは難しい。
 この認証には様々な項目に分けて細かく情報提供が要求されており、それぞれの要求項目が何を求めているのかを理解するのが難しいのだ。
 中小企業の場合は、専門家の支援があった方が認証取得はしやすいだろう。

 
 
 
 
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2016年12月19日

ユーキャンのイメージ悪化:事後対応のミス

 産経新聞の報道による。

 今年の「ユーキャン新語・流行語大賞」について、生涯学習・通信講座のユーキャンが公式サイトで見解を出したという。

「協賛という立場である弊社は、審査員の選定やワードに関して意見を申し上げる立場にございません」

 今年の新語流行語大賞のトップテンに「保育園落ちた日本死ね」が入賞したことで、批判が巻き起こった。
 批判の矛先は、選考委員だけではなく、協賛企業のユーキャンにも向けられた。
 ネット上では、「資格試験落ちた。ユーキャン死ね」という言葉が飛び交い、ウィキペディアのユーキャンのページは、一時、「株式会社ユーキャン死ね」に書き換えられた。
 ユーキャンは、このイベントの主催者ではなく、ただのスポンサーに過ぎない。
 お金を払ってイベント名の冠に「ユーキャン」という社名を入れてもらっているだけ。
 選考委員の選定にはかかわっていないし、流行語の選び方に影響を与えているわけでもない。
 だが、イベント名にユーキャンの名前が目立つために批判の標的にされた。
 
 今回の騒動で、ユーキャンは企業イメージを悪化させてしまった。
 ほとんど言いがかりともいえる批判を浴びた結果で、ユーキャンとしてはとんだ災難だったという思いだろう。
 だが、これは、ユーキャンの事後対応に問題があったと言わざるを得ない。

 スポンサーとして協賛しているイベントで問題が起きた場合、協賛企業のイメージ悪化は避けられない。
 そのイベントの注目度が高いからこそ、スポンサーとして企業名を出しているはずで、それだけ影響力のあるイベントであれば、問題が起きたとき、この悪影響も大きなものになるのは当たり前だ。
 企業イメージへの悪影響が出るのは分かり切っていたのに、何も手を打つことなく、事態の鎮静化を待つばかりだった。
 事態が鎮静化するどころか、企業イメージが傷ついたまま終わってしまいそうなのに危機感を覚え、ようやく企業としての見解の公表となったのだろう。
 しかし、このコメントは、企業イメージの回復に役立っていない。

 ユーキャンとしては、「我が社としてはただのスポンサーで、審査員や流行語の選定に関与しているわけではない」と言っている。
 だが、こんなことは、みんなが承知していること。
 誰もユーキャンがこの流行語を選んでいるなんて思っていない。
 「日本死ね」などという言葉を流行語にしようとするイベントそのものへの不信感が、スポンサーへの批判に向かっているだけなのだ。
 イベントの内容に意見を言う権限がなかったとしても、国民の反感を買うようなイベントに協賛しているということ自体が問題視されている。
 視聴者の反感を買うテレビ番組に対しては、スポンサー企業への不買運動が起きたりするのと同じ。
 だから、単にカネを出しているだけのスポンサーなら、なおのこと、迅速な対応が必要だった。

 騒動直後にユーキャンが真っ先に表明すべきは、「今回の流行語については、多くの国民の皆様と同じように違和感を覚える部分がある」ということだった。
 そして、「今後の協賛の継続については、検討の余地があるかもしれない」と含みを持たせておく。
 これだけで、企業イメージの悪化は最小限に抑えられる。
 本当にただのスポンサーなのだから、企業イメージの向上に役立たないとなれば、協賛を中止するという判断は、当たり前の行動だろう。
 むしろ、その行動が多くの国民の共感を得て、企業イメージの向上につながったかもしれない。

 今回の騒動は、今年たまたま起きたわけではない。
 ここ数年の流行語の選定に対して、その基準がおかしいと指摘され続けてきた。
 その蓄積した違和感が、今回の「日本死ね」で一気に爆発したというのが実態だろう。
 国民の感覚と乖離したイベントになってしまったことが問題なのだ。
 しかも、その兆候は以前からあった。
 そして、国民の我慢の限度も、今回の騒動ではっきりした。

 来年のこのイベントはどうなるのかが注目される。
 今回批判に晒された選考委員の一人は、批判する人たちを小ばかにした後、「来年も同じ基準で選考する」と強気な物言いで突っぱねていた。
 選考委員は来年も当然のように選考委員でいると思っている。
 まるで、選考委員の席は終身で保障されているかのようだ。
 本当に来年も同じ選考委員で行うのか。
 同じ顔触れで行うとして、2つの展開が考えられる。
1.批判に屈せず、同じようなサヨク好みの選定が行なわれる。
2.批判回避を優先して、わざとインパクトのない選定が行なわれる。
 どちらにしても、このイベントの信頼度は更に低下することは避けられない。

 このイベントを今後も続けるのなら、主催者が取り組むべきは、選考の仕組みの一新からだろう。


 

 
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2016年12月07日

ユーキャン流行語大賞に存在意義はあるか

 ユーキャン新語流行語大賞をめぐって議論が絶えない。
 年末恒例のイベントになった流行語大賞の発表だが、最近、その設定基準がおかしいとの指摘が上がっている。
 今年は、「神ってる」大賞になった。
 広島カープの快進撃ぶりを驚きとともに讃えた言葉。
 野球ファンにとっては、なじみがあったのかもしれないが、それ以外の人には縁がなかった。
 
「こんな言葉、どこで流行ってたの?」
「周りで誰もこの言葉を使っている人がいないんだけど」
 という声があちこちから。

 多くの人が違和感を覚えたのは、「保育園落ちた。日本死ね」がトップテンに入ったこと。
 「○○死ね」というような呪詛の言葉が流行語に入れられていることに反発が起きているのだ。
 更に、授賞式では、民進党の議員が満面の笑顔で登壇していたことも、人々の違和感を増幅した。
 
 このような違和感は去年も指摘されていた。
 去年のトップには「トリプルスリー」が入っていたが、これも野球関連で、一般の人になじみがなかった。
 更に、トップテンには、「あべ政治を許さない」が入っていた。
 この「あべ政治を許さない」は、野党議員が国会内で採決に抵抗するときにカメラ向けにビラを掲げていたが、そのビラにかかれていた言葉だ。
 ニュースでその映像を見ることがあったが、この言葉が一般に流行していたとはとても言えない。

 最近の流行語大賞は、選考委員の意図的な選考になっている。
 6名の選考委員が公表されているが、とても一般国民を代表しているように見えない。
 さすがに、今年の「日本死ね」には、ネット上では異論が噴出した。
 その異論に対して、選考委員の一人が反論しており、そのことが更に騒ぎを大きくしている。
 
 選考委員の一人は、「議論を呼ぶもの、問題を喚起するものとして選んでいる」と説明した。
 流行語とは、人々の間で流行した言葉だと私たちは思っているが、選考委員は勝手にその基準を変えてしまっている。
 それに、本当に議論を呼ぶものを選考基準にしているのだったら、もっと別のキーワードがいくらでもあった。
 「生前退位」は、その筆頭だろう。
 これなど、日本の国家観まで左右するような本質的な議論がいまだに絶えない。
 だが、この言葉は、ノミネートさえされていない。
 単に選考委員が、個人的に問題視し記録に残したい言葉を、勝手に選んでいるだけというのが実態だろう。

 この選考委員は、こうも述べた。
「難しい専門用語が入っているわけでもない。「ニュースぐらい見ろ」と言いたい」
 選考委員であることが何かの権威であるかのような、この上から目線の横柄な言動は目に余る。
 この思い上がりが、一般国民との意識の乖離をもたらしているのだろう。
 今年の流行語を数人の選考委員の思わくで決定しているこのイベント。
 一般国民の支持は失われつつある。

 本当に、今年流行した言葉は何だったのかは、誰もが知りたい。
 こんな恣意的な選考ではなく、もっと科学的な選考をしてもらいたい。
 「ニュースで最も多く取り上げられた言葉」
 「検索エンジンで最も多く検索された言葉」
 「ツイッターで最も多くつぶやかれた言葉」
 これだったら、特定の意図が介在しない客観的なデータが得られるだろう。
 ここにこそ、本当の世相が現れるのではないだろうか。

 ユーキャン流行語大賞は、過去の受賞記録とともに永遠に残る。
 過去の受賞記録を振り返ることで、その当時の世相を知ることができる。
 だが、今回のような意図的な流行語の選定が行なわれると、世相を間違って記録してしまうことになる。
 例えば、20年後に今の受賞記録を見た人は、「あべ政治を許さない」「日本死ね」という言葉を見たら、当時の国民は政府や国に対して反感と不信感を抱いていたと勘違いするだろう。
 こちらの方が、問題が大きい。
 
 このようなユーキャン新語流行語大賞に存在意義はあるのか。





 
 
 
  
posted by 平野喜久 at 10:02| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月06日

キュレーションサイトの害悪:WELQ

 DeNAが運営するキュレーションサイトWELQが批判に晒されている。
 WELQは、健康医療に関する記事を集めた情報サイト。
 検索エンジンでも常に上位に表示される目立つサイトだった。
 ところが、その記事内容があまりにもお粗末だったため、あちこちから疑問の声が上がり、炎上となった。
 騒動の大きさに驚いた運営者は、サイトを慌てて閉鎖したようだ。

 この手のキュレーションサイトは、人々が関心を持ちそうな情報を手軽に入手できる情報源として利用者が多かった。
 だが、その運営の実態が分かるにつれて、その信憑性はもはや地に落ちた。
 WELQの場合、自由な投稿者の記事によってなりたっている風を装っているが、実際は、クラウドワーカーによる記事の粗製乱造によるものだった。
 1記事につき1万文字以上で報酬数千円というのが1つの相場らしい。
 記事内容の精度は求められず、キーワードを多く含んだボリュームのある記事を量産することだけを求めていたようだ。
 SEOライティングと言って、検索エンジンにヒットしやすい記事の書き方がある。
 そのSEOライティングにあった記事が求められるのだ。

 この手の文章は、不自然で読みにくい。
 キーワードが頻繁に出てくる。
 同じキーワードが頻繁に出てくるサイトは、検索エンジンにかかりやすい。
 だから、指示語を使わず、キーワードをしつこいぐらいに繰り返す文章になる。

 記事の情報量が豊富。
 情報量の多いサイトほど充実していると判断され、検索エンジンでヒットしやすい。
 だから、ただ文字数を稼いでいるだけのような無意味な文章がだらだらとつづられることになる。

 これらの記事ライターは、全くの素人がアルバイト感覚で取り組んでいるらしい。
 だから、実際の知見に基づいた記事でもないし、正確な情報を調べたり検証したりする作業も行なわれていない。
 ネット上で拾い集めた文章をコピペして、一定の分量の記事にひたすら仕上げているだけ。
 内容がいい加減になるのは目に見えている。

 問題は、DeNAという有名な上場企業がこのサイトを運営していること。
 この運営企業の知名度が、このサイトにお墨付きを与えてしまっているのだ。
 これが、匿名による怪しげな個人ブログだったら、誰も注目しないし、問題にもしないだろう。

 DeNAの事業戦略としては、ゲームの売り上げが低下傾向にある中、次の収益の柱の1つとして、このキュレーションサイトの運営事業があったのだそうだ。
 普通なら、情報メディアとしての人気と信頼度を獲得するには、時間がかかるし、地道で継続的な取り組みが必要だ。
 だが、ベンチャーのDeNAにそんな悠長なビジネスモデルはありえない。
 それで、安易な方法で記事を量産することで、一気に存在感のあるメディアを作り上げようという作戦だったのだろう。
 人気メディアを持つことの狙いは、広告収入にある。
 多くのアクセスがあるかどうかが最大の目的になる。
 だから、記事内容の信憑性よりも、SEO対策を徹底させて、アクセスさせることだけを狙った記事の量産になった。

 WELQの記事は、医療情報の内容がでたらめという点で、薬機法(薬事法)違反という問題とともに、他人の文章を勝手に剽窃、改竄しているという点でも問題があった。
 これらは、ネットの抱える問題として古くから指摘され続けてきたことだ。
 ネットベンチャーともいえるDeNAが、ネットの問題を丸抱えしたようなビジネスを行なっていた。
 あまりにも安易であり、レベルが低すぎる。
 こんなことをすれば自らの事業領域を破壊するようなものということが分からないほど、目先の事業展開に行き詰まっていたということか。





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2016年12月01日

レジリエンス認証を目指そう

 2016年からレジリエンス認証がスタートした。
 レジリエンス認証とは、政府の内閣官房国土強靭化推進室が行う施策で、国土強靱化の趣旨に賛同し、事業継続に関する取組を積極的に行っている事業者を「国土強靱化貢献団体」として認証する制度だ。
 「国土強靭化貢献団体」というと何のことか分からなくなるが、平たく言うと、「まじめにBCPに取り組んでいる事業者を国が応援しよう」という制度ということになる。
 いま、国策として国土強靭化政策が進められているが、これは、国や自治体が対策をすればいいというものではない。
 民間の事業者も、同じように準備を進めてくれなくては、本来の国土強靭化にならない。
 民間事業者のBCPの取り組みは一部で取り組まれているものの、全体的な普及が進んでいない。
 普及が進まない理由としてはいろいろあるが、その中の1つとして、BCPに取り組むことのインセンティブが働かないということが挙げられる。
 つまり、せっかく苦労してBCPに取り組んだとしても、誰かに評価されるわけでも認められるわけでもないとしたら、ただ勝手に取り組んでいるだけで、そのメリットが感じられないというわけだ。
 そこで、まじめにBCPに取り組んでいる事業者を国が積極的に認めて、その活動を応援しようということになった。
 それが、このレジリエンス認証だ。
 レジリエンス認証制度に表向き「BCP」という言葉はあからさまに出てこない。
 だが、その目的はBCPの普及にある。
 BCPという言葉を避けているのは、この言葉が欧米発祥の概念であるし、国際規格にもBCP関連のものがあるために、それらとは別の日本独自の制度であることをはっきりさせる意味があるのだろう。
 BCPという言葉は使われていないが、やっていることは、ずばりBCPそのものだ。

 中小企業の中には、せっかくBCPに取り組んでいるものの、それで十分なのか不十分なのか、方向性があっているのか間違っているのかが分からないまま不安の中での取り組みになっている場合がある。
 そのような場合は、このような認証制度は非常にありがたい。
 この認証を得ることで、我が社のBCPは一定レベルにあることを客観的に証明される。
 認証を受けると、認証マークの使用を許可されるので、それを内外へのアピールに使うことができる。
 これが国の認証であることは、取引先に対しても絶大の信頼になる。
 自社の案内パンフレットや名刺、ウェブサイトに、認証マークを表示し、我が社のBCPをアピールできる。
 この認証制度を知らない人でも、このマークを見れば興味を示してくれるので、それをとっかかりにして、我が社の取り組みを知っていただける。
 この認証制度は、ISOのような国際規格と違い、日本の事業者の実態に合った審査が行われており、現実的で意味のある制度になっている。

 この認証制度の審査で重視されているのは、活動実績だ。
 つまり、BCP文書を作りましたというだけでは評価しない。
 BCP文書を作ることは当たり前だが、それだけでBCP活動が終了するわけではない。
 BCPを策定すれば、実際にそれに則った事前対策が行なわれなくてはいけない。
 行動計画があれば、それに基づいた教育訓練が行われなくてはいけない。
 BCPの見直しは常に行われているはずで、見直しのたびにバージョンアップがなされていなくてはいけない。
 そのような活動が行われているのかどうかが審査のポイントになっている。
 単なる文書主義や形式主義に陥ることなく、BCPの実効性に焦点を当てているところが特徴だ。
 
 もう1つの特徴は、経営トップの積極的な関与を求めていることだ。
 認証審査は、1次と2次に分かれる。
 1次審査は書類審査だが、2次審査は経営者ヒアリングが行なわれる。
 この意味は大きい。
 つまり、BCPは経営トップが関わるべき重要課題という位置づけを求めているのだ。
 総務の一担当者に任せっきりで、社長が感知しないというケースがあるが、この認証制度は、それを認めない。
 だから、面談による審査で、社長自身がBCPの内容を理解し、率先して活動を進めているかどうかが問われることになる。

 この認証制度で、求められる項目は多岐にわたるが、いずれも、まじめにBCPに取り組んでいる企業であれば、当たり前の内容ばかりで難しいことは1つもない。
 制度の趣旨がBCPの普及であり、厳しい審査で不合格を出すことは求められてない。
 むしろ、活動を応援してくれる制度だと理解したほうがいい。
 事業者の実態に合った審査をしてくれるところもありがたい。
 中小零細事業者が大企業と同じ評価基準で機械的にチェックされたら、すべて不合格になってしまうだろう。
 大企業は大企業にあったBCPがあり、中小零細事業者にはそれにふさわしいBCPがある。
 少々取り組み不十分なところがあったとしても、そこを指摘して、今後の活動の在り方をアドバイスしてくれる。
 そういう意味では、中小企業にとっても対応しやすく、意味のある制度になっている。

 大企業は、BCPの取り組みは行われていて当たり前で、このような認証をわざわざ取得するメリットは少ない。
 中小企業の場合、この認証取得のメリットは大きい。
 むしろ、中小企業へのBCP普及のために設けられた制度と言ってもいい。

 BCPに取り組む場合、このレジリエンス認証取得を1つの目標に置くことをお勧めしたい。
posted by 平野喜久 at 16:47| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | リスクマネジメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月27日

マンスリーマンションの入居者に受信料支払い義務なし:東京地裁判決

 マンスリーマンションに入居した20代の男性が、NHKに受信料を不当に支払わされたとして、NHKに受信料1310円の返還を求めた訴訟。
 東京地裁の判決は、「部屋にテレビを設置したのは物件のオーナーか運営会社であり、男性には受信料の支払い義務はなかった」として、NHKに1310円の支払いを命じた。

NHK側の主張はこうだ。
 「マンションの運営業者は『受信料は入居者が負担する』と明示していたほか、テレビを使っていたのは男性で、受信契約を結ぶ義務があった」
 この主張は明らかにおかしい。
 放送法では、受信機を設置したものに受信契約の義務を課しており、設置者がこの男性でない以上、契約の義務はなく、したがって支払いの義務も発生しないのは当然だ。
 NHKが「テレビを使っていたのは男性だ」と言っているが、これは、NHKが言ってはいけない言葉だろう。
 つまり、テレビを使ったかどうかで、受信料の支払いが発生するかどうかが決まると言ってしまっているからだ。
 放送法では、テレビを視聴したかどうかで受信料の支払い義務が発生するわけではない。
 テレビを見るか見ないかは関係なく、テレビを設置したことをもって契約の義務ありということになる。
 テレビの所有者に公平に負担してもらうためにこういう制度になっている。
 視聴料ではなく、受信料という名目になっているのも、このためだ。
 NHKも普段からこのように主張しており、「NHKは見ないから」という言い逃れは許さなかった。
 なのに、今回の裁判では、NHKは、この男性がテレビを使っていたことをもって、支払い義務ありという主張をしてしまっている。
 自家撞着をきたしている。
 裁判に勝つために、弁護士が無理やり理屈を作り上げたために、齟齬をきたしており、そこを裁判官に突かれた形となった。
 特に、「テレビを使っていた」という奇妙な表現で、ずいぶん、無理をしているのが分かる。
 普通なら「テレビを見ていた」というべきところだが、それだと、テレビの視聴が支払い義務の条件になってしまうので、「テレビを使っていた」という不自然なことばで逃げようとしたのだろう。
 テレビを見なかったとしても、居住スペースにテレビがあるだけで「使っていた」という解釈にもっていこうとしている。
 我が家にガスコンロがあるだけで、ガスを使っていたことにされるようなものだ。
 これほど、一般国民の常識とかけ離れた解釈はない。
 NHKの受信制度は、あまりにも現代の私たちの感覚とかけ離れすぎている。
 こんな無理筋の主張をしなければ受信制度を維持できないのだとしたら、この受信制度そのものが現代にそぐわなくなっているということだろう。
 いい加減に、根本から制度を見直すべきときが来たといえる。






 
 
posted by 平野喜久 at 18:39| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 世事雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

遺族の疑問は解消していない:大川小津波訴訟

 大川小の津波訴訟。
 14億円の賠償命令が出された。
 地震直後に適切な情報収集を怠ったこと、津波の襲来を知ってからの避難行動が不適切だったことにより、学校側の責任が厳しく判断された。
 遺族側は勝訴したが、これでもまだ納得できるところまでいっていないだろう。
 「なぜ?」という疑問が解消されていないからだ。

 なぜ、50分間も何もせずに校庭で待機していたのか。
 なぜ、裏山に逃げようとする児童を引き戻したのか。
 なぜ、川岸の方向に避難しようとしたのか。

 大川小周辺にもいろんな小中学校がある。
 大川中、橋浦小、北上中、吉浜小。
 これらの学校の生徒児童は適切に避難し、犠牲者はゼロだ。
(在校生の中に犠牲者のいる学校もあるが、いずれも帰宅後に津波に襲われたケースばかりだ)
 大川小の犠牲だけが際立っている。
 だから、その理由をみんなが知りたがっているのだ。

 学校側の行なった検証も遺族を納得させるものではなかった。
 検証委員会を立ち上げて調査もしたが、学校側の免責を主張するための調査になっていて、まったく客観的な検証になっていない。
 裏山に登ろうとしていた児童を引き戻したという話については、事実確認ができないとして、検証報告書からは外された。
 そのかわり、裏山は崩壊の危険があるという地元民の指摘があったとか、川岸への移動は地元住民の先導で行われたとかいうあいまいな証言を採用して検証結果に盛り込んでいる。
 ただ、学校側に非がないことをでっちあげるための検証だった。
 これに遺族が怒って、訴訟を起こしたのだ。
 実態はどうだったのか、ということを解明してほしい。
 どうして、こんなことになったのかを明らかにしてほしい。
 遺族の思いはここにある。

 一番の問題は、唯一生き残った教員が、何の証言も残していないことだ。
 教師になりたての新米教員だ。
 過去に1度だけ、遺族への説明会に顔を出したことがあったらしいが、その後は姿を見せていないという。
 今回の裁判でも証言を拒否した。
 学校側から止められているのかもしれない。
 この教員自身も、PTSDを患い、思い出すのもつらい日々を送っているのに違いない。
 当時の状況を唯一正確に伝えられる人物だけに、彼に課せられた責任は重い。
 犠牲になった児童らのためにも、そして、後世に残すべき教訓のためにも、勇気ある証言を期待したい。




 
 
 
posted by 平野喜久 at 09:50| 愛知 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | リスクマネジメント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする